2024.02.17

小説から読み解く男らしさの軌跡

小説から読み解く男らしさの軌跡

~感性のブラッシュアップ~
懐郷「片岡義男」

昭和54年初版発行「マーマレードの朝」を愉しむ

「さしむかいのラブソング」にみる男らしさ/女らしさの表象

「さしむかいラブソング」は、片岡ワールドでは欠かせないアイテムの一つ、オートバイの存在性が絶妙な味付けになっている短篇の恋愛小説である。
ホンダのナナハンに乗る久保田幸雄と短大生 村山美紀。時代の隙間に生きているような2人の不安定で向こう見ずな性格と生活。恐らく世の中も浮足立っていて、物事の善悪ですら曖昧にする事ができていた時代であったような気がする。

若者が持つ純粋さと何%かの刹那の中で彷徨いながらも必死に生きている男と女の誤魔化しようもないラブストーリーである。

紛れもないラブストーリー。「幸雄」と「美紀」の恋の物語。片岡氏の小説は恋愛との距離感が近いのでラブストーリーという表現に不自然さはなない。ただ、この「幸雄」と「美紀」においてのストーリー、その妙は遠回りであることだ。出会って直ぐには恋愛に発展しない、させない、できない幸雄という男性の男っぽさが、心地よいのだ。

本質に迫る上で一石を投じてくれたのが巻末の郷原宏氏の解説だ。この短篇に限っての評ではないが、氏は片岡作品を「フィーリング小説」と評している。更に感覚小説/感応小説としており、いずれにせよ曖昧であり情意的な世界観を感じる。限定的なジャンル設定はチープであり不要だと思わせる。この「さしむかいラブソング」を恋愛小説と括ってみたもののその枠に閉じ込める行為は片岡氏の小説の楽しみ方には反するような気もする。
如何にものラブストーリー然とした直球の表現は見当たらない。見えない裏側に確かに存在する極めて繊細で不器用な心の交わりの中で成立するであろう儚げで自己主張が見当たらないストーリー。その表現が「フィーリング小説」に繋がるかは不明であるが、どのジャンルにも属さないような抽象的な世界観に逆に共感させられてしまう。やはり恋愛小説とだけ呼ぶには平凡過ぎるのだ。確かに男女の恋愛ストーリーなのだが。
更に郷原氏はこう綴っている。「余計な心理描写や風景描写がない。そこに登場する男性または女性はまず行動し、行動の中途で出会い会話を交わし、そして別れる。職業も地位も学歴も思想も時には性格さえも重要ではない」(中略)と。これは読者自身の感性に対し極めて柔軟に想像する喜びを与えてくれている。あくまでも私はラブストーリーとしての一端を拾い上げたが、生きることに不器用な若者のヒューマンストーリーと捉える人もいるかも知れない。

その読者の想像力を掻き立てる一種の手法は主人公の一人、美紀についての表現でも伺われる。
郷原氏が答えを用意してくれていた。「その髪、身長、皮膚の色、声、服装、装身具などが詳細に描写されることはあっても、その心理や精神が問題にされることはない。(中略)内面などというあやふやなものは最初から除外される」。否応なく読者は、美紀の像を好き勝手に想像するわけであり、想像してしまう方向に知らぬうちに導かれている。
その片岡ストーリーとしての状景描写に対して、読者は戸惑いや物足りなさという感情をぶつける事はしない。当たり前である。勝手にそして自然に自分の都合の良いイメージを挿入することを無意識に楽しんでいるのだから。
私は改めて感じた。片岡小説はどこまでいっても何がどうであっても「爽快」であると。ストーリーの方向性を決定させるべき主人公の内なる性格の所在を紙面で説明され尽くされることはない。それが読者側に委ねられていることと繋がるのだが、とはいえ悪い印象を連想させることもない。涙や苦難があってもである。それが「爽快さ」に繋がっている因子のひとつであると思う。

20代の頃。仕事でもプライベートでも、その時間の多くは自己葛藤や世の中の矛盾や不合理、まさに心理や精神性などあやふやなものに覆われていた自分がいた。それは「爽快」とは真逆の世界であった。現実では自己実現が難しくまさしく理想的な世界を片岡作品のストーリーの中に投影していた自分。
因みに今どきの酸欠のような男の生きづらさとは違った切ない酸っぱさみたいな感覚覆われていた。そんなあの頃であった。
更に郷原氏のコメントは続く。「内面をいっさい無視することによって、かえって豊かな人間像を造型しえた」とある。20代30代と既に取り戻せない若き自分から遠ざかって久しい。今となっては自らの年輪は増えたものの刻み込まれたその経験は爽快さに溢れたあの頃を確実に過去の幻影としてしまい、容赦なく日常という現実を照らすだけとなった。
ただし、時を隔てた今でも片岡ワールドの世界は心の中で継続している。1つの写実的な描写もこれまでとは違った風景を精神的な味わいとして想起させてくれるのだ。自らの年輪を見つめ直してみても、人間としての豊かさを少しは備えることができた自分がいるのか、それは曖昧だ。できればそんな自分と40年前の主人公の心理を新たに重ね合わせてみたい。年を取った男が今となって感じる爽快さがそこにあればそんな嬉しいことはない。本題の「さしむかいのラブソング」。
もう少しストーリーを追ってみたい。片岡氏の小説全般にいえることであるが、登場する女性は美人でエレガントなイメージに包まれている。この短篇においても例外ではない。「くすんだ黄金色に濃紺でこまかく横じまの入ったプリーツの多いスカート。同じシルクのような感じの生地でスカートにあわせた長袖のシャツ・ジャケット。共布のひもで腰をしめ、アクセサリーは首にかけている細いゴールドのチェーンが1本」。こんなスタイル描写は片岡氏の小説だからという先入観もあるが、同時に描写される行動内容とは時に関係なく時に相乗効果を得ながら、魅力的な雰囲気は印象付けられ更に形づけられる。前述の通り内面描写はほとんど無い。外面的な美しさはともかく、この短篇ストーリーの美紀はアウトローであり、いわゆる阿婆擦れをイメージさせる、そんなキャラクターである。しかし若き頃の自分の視点に立ち戻ってみると、意外と実はわがままなお嬢様、という見え方も再出する。要は決してお育ちは悪くないのだが、世の中や親や自分に反発しているイメージ、そんな女性である。自分がこの年になったからこそ新たなる発想が生まれたのかは図れないが、まさしく片岡氏の小説は、深遠さや広範なる可能性の中で想像する楽しみを読者に与えてくれるのである。ストーリー全体を通しての理解にはなるが、そんな美紀は、愛おしく、憎めず、守りたくなるような弱さ、そして強さを内包する女子であり、一括りにはできないものの、総じて「いい女」という印象が崩れることはない。時代背景は別として、煙草を吸う短大生という現実描写があってでもだ。
また、美紀はインスタントラーメンですらまともにつくれない。幸雄は間髪容れずにそのラーメンをトイレに捨ててしまう。ただ後日、美紀が何品かの料理をつくるシーンが描かれる。古いアパート、一つしかない鍋で不器用ながら健気に。簡単な料理もつくれない、といういい女としては大ダメージの印象(偏見か?)から、健気という柔らかさの挿入、情景描写だけでイメージの挽回どころかアップを図っているのも片岡マジックである。この好意的感化は男としての自分の単純さの表れであろうか。
また所々に点在させている美紀の短いセリフ。
「ごめんなさい」という素直さと言葉遣い。「こくんと、彼女はうなずいた」という表現。
いまどき「こくんと」、というそんなうなずき方をする女性はいるのか?限られた自らの過去のシーンを振り返っても霧に包まれているだけだ。この幾つかの情景描写によってストーリーの中心にあった阿婆擦れ感を見事に払拭している。同時に存在する重要ポイントが別にある。男としての幸雄の振舞いである。幸雄は美紀と最初に出会った瞬間から、ぶれない自分がいる。「誰が見てもまちがいなく美人だというはずの、きれいな顔をした20歳になったかならないかの女性だ」と幸雄のセリフにあるように、やはりまず美人である認識があったことは否定できない位置づけだ。

2人の出会いのきっかけは美紀が運転する大型のアメ車が後ろを走る幸雄の単車(ホンダのナナハン)と巻き込み事故を起こしそうになった瞬間から始まる。当然、幸雄の命・ケガにも繋がる事態なわけである。難からは逃れたわけだが、止まることの無く走り続けるアメ車を30分以上追走した・・。
やっと車から降りた美紀がそこにいたある漢から殴られる、というシーンに急展開する。事の次第を遠巻きから見守った幸雄。漢が去った後から2人のストーリー展開が始まるのだ。自分にいや愛車のナナハンを危険な目に負わせた美紀に怒りをぶつける幸雄。本来当たり前ではあるが、この時点で既に幸雄は美紀が美人であることに気が付いていたはずだが、それまでの怒りのボルテージを下げない、ぶれない幸雄がいる。単純に「美人だったから思わず赦してしまった・・」という見解をもってくるのも軟派すぎるが、実際に事故にはつながっていない事、そして見知らぬ漢に暴行を受けていた事実を鑑みると、一言物申すとしてもとりあえず大袈裟にでも労わり心配する様子を露にすると思われるのだが。おとこの生態とは不思議なもの、敢えて答えを引き出さなくてもいいのだが。
ここで幸雄の幾つかの内なる性格が推察できる。
彼の性格を図りうる一端として「硬い表情のままやくざな口のききかたをするから、いつも何かに怒っているような印象をはじめのうち受ける」。また「一本気な男だ」というフレーズがある。
簡単に言えばやんちゃな性格の青年なんだろう。あくまでも表層だ。幾つかの表現だけで彼を知ることはできないが、ライダーとしての信念と心意気を有し、美女の突然のご登場にもたじろぐことはない。その反面「19のいい女じゃねえか」「何もしねえよ。俺の部屋でよければどうぞ と言ってるだけだ」と時としてぶっきらぼうながらも、美紀に興味があるような発言をする。
やはり幸雄は美紀の美貌を意識しているし、本心を見透かされないように言葉を選んでいる。それは眩しさを感じる程の女性を前にして冷静さを装うおとこの格好つけであり、不器用かつシャイな表現パターンだ。根は純粋な荒くれ者。個性的な外面が強調されればされる程、反作用的に幸雄の内面に存在する丸裸な真実へと導いてくれる。

更に全体を通してのポイントとして敢えて注視してみたいのが、美紀の涙、泣くシーンである。男性は女性の涙に弱いとはいうものの、女性がそれを武器として多用し始めるとその涙は人間としての価値も下落させる。それは女性たる自意識が純粋なる感情を上回った時に発生する。そんな気がする。
この短篇における涙の存在とは。
ストーリーの序盤、アメ車を降りた美紀は待っていた漢に殴られ蹴られ涙する。これは決して暴力からの回避の為の演技ではない、と逆に思う。当然だが暴行を受けた事実、その痛みのせいもあるだろうがそれは作為的でない極めて自然な反応である。どちらかというと恐怖に慄く極限の涙。男性は真実の涙を見分ける本能がある。無骨のようであっても繊細な能力を有するのだ。ある種の自己防衛本能か?一本気な幸雄でありながらも彼の感受性は様々な葛藤と闘っていていたはずであるが、それを露骨で分かり易い優しさとして表現しない男の寡黙な心意気を称賛したい。過剰に反応し気遣い宥める優しさを否定するわけではないが、こんな斜めな優しさはまさしく男の不器用さの表れでもある。
その不器用さの最たるシーンがある。ストーリーの後半、止むことの無い美紀の別の顔。幸雄自らがそれを許容し同時に助長させるような態度をとる、というある種の自虐性と刹那に満ちた行動。小さなアパートという同じ居場所の中で発生する大きな窮屈さと苛立ち、端なき距離感。個人的な視点だがそこに幸雄の美紀への独占欲は感じられない。何を求め何を満たしたいのか。美紀の生き様を許容することが愛なのか。それを尊重と呼べるのか。片岡氏も語らぬこの内面の心模様の答えはない。愚直で不器用、何よりも清らかさに覆われている幸雄が見える。
自らの心のコントロール能力を失ったのか、はたまた超えることのできない女性の偉大さと得体の知れない強さに屈したのか、美紀を痛めつけ己の心をも痛めつける。

やがて「出ていけ!」と美紀を無理やりアパートから追い出す幸雄。お互いの心と身体を痛めつけることでしか、この「愛」の落としどころは既に無かったのであろう。1人になった美紀が売春容疑で捕まるのにさほど時間はかからなかった。美紀の別の顔。

留置場で美紀に面会した幸雄。精彩を欠きながらも美しさが同居する美紀の表情に何を思ったのであろうか?平凡な答えだが恐らく美紀を手放さず守り抜こうと決意をした一瞬がそこにあったのではないだろうか。ひとつの期待だが。

「留置所って、寒いのよ」と冬物を持ってきてとお願いする美紀の言葉に素直に応じる幸雄がそこにいた。

美紀のアパートに向かう坂道で幸雄のバイクと小型トラックが正面衝突をする。生きていることが不思議なくらいの幸雄のからだ。入院して11日目の朝、保釈された美紀が病院を訪れる。幸雄の容態。「・・骨盤が股間で砕けたから・・・・・・異様な雰囲気が漂い、膀胱の破裂はまぬがれたものの、尿道や輪精管などぐちゃぐちゃに寸断され、つぶれた。肛門も役に立たない。ゴム管やビニール管が何本もぐるぐる巻きの包帯の中から外にのびていた」。瀕死の状態の幸雄のもとを訪れた美紀と幸雄のラストの会話が秀逸で泣かせる。

まさに片岡ワールド、真骨頂である。短いセンテンスが、逆にこれ程までに完璧にこの2人の内面、心理を描写し、そして読者を引き付ける言葉の配置は妙技である。敢えてそのままの文章を抜粋したい。

ベッドのわきに立ち、美紀は幸雄の顔を見た。幸雄は、目を開いていた。
「サチオ」やっと聞きとれる小さな声で、美紀が言った。
「どうしちゃったの?」
唇の端で、ほんの小さく、幸雄は笑った。

立って歩けるようにはなるだろうけど、体がどの程度までもとのようになるか、いまのところなんの保証もできないと、医師から言われている。根気でいこう。医師はそう言っていた。
ベッドのわきの、折りたたみの椅子に、美紀はすわった。
そして、「あたし、看病する」と、小さい声で言った。
「俺は、病気じゃねえよ」いつもの口調で、幸雄が言った。

「ずっと、そばにいる」
美紀は幸雄の目をじっと見た。
薬品のにおいに満ちた部屋に、外の自動車の音が、地鳴りのように聞えた。
しばらく、ふたりは、無言だった。

「おい、ミキ」と、幸雄が言った。
「はい」
「こういうのを、さしむかいと言うんだ」
食い入るように幸雄を見ていた美紀の血の気がひいてよけいに美しい顔がまっ赤な唇から頬そして目とくしゃくしゃになった。唇が両端からひっぱられて「へ」の字にさがり、ぶるぶるとふるえた。頬が急激にべそをかき、 両目の下まぶたに涙が盛りあがった。
涙は頬にあふれ、いっせいに流れ落ち、頬の途中から、そして唇や顎のさきから、つづけざまに落ちた。いくつもの涙の滴が、美紀のひざに置いたエナメルのバッグに当たり、ぽたぽたと音をたてた。

片岡氏は一篇の小説の表題をセリフで決める作家でもある。この作品も「こういうのを、さしむかいと言うんだ」という幸雄のセリフからとられている。
敢えて言うならばこの極限での幸雄のセリフの内面は如何にあるのか?究極のやせ我慢か?格好つけか?もはやどちらでもいい。それが男だから。同時にこの最後のシーンを形づくるのが美紀の涙である。これ程愛おしい涙は他にない。これ程清らかな涙は他にない。と思う。

教訓 「それでいい。それがいい」。
■将来が見えなくてもいいではないか。障害があってもサスティナブルな愛はある。
■「いい女」と「素敵な人間」は同義語である。だから奥深い。
■幻想。ロマンティック。
■男性が女性の内面に心底惚れる。そこに辿り着くには時間がかかりそうだ。

 

<参考書籍> 片岡義男著 「マーマレードの朝」(さしむかいのラブソング)株式会社角川書店