2024.01.26

小説から読み解く男らしさの軌跡 プロローグ

小説から読み解く男らしさの軌跡 プロローグ

懐郷「片岡義男」 

若き日の模様
我々の世代において小説家  片岡義男フリークな方は多いのではないだろうか。紛れもなく自分もその一人である。そして今更ながら幾多の彼の作品を介して、男としての世界観やその生き方などを探ってみたくなった。といっても難しい話でもなく、単純にあの文庫本たちと懐かしき思いの中で再会したくなったということである。
昔の感覚を何か取り戻せるか?新鮮なる再発見は?そんな触手が過去に向かって伸びたのだ。
片岡氏が教えてくれた男としての「理想と憧れの世界」を追想していきたい。

「序幕」
1980年のあの頃。高校生活も3年目、中途半端に足掻きながら真面目と不真面目が競い合う男子校での日常があった。既製品のような人材を作る為に仕組まれた流れに乗るかの如く、3年生ともなれば部活を引退し、授業がない午後は多くの級友が当然のこととして受験予備校に向かった。何も考えずにいた自分とそのポン友の午後の日課。インベーダーゲームは、既に攻略テクニックもそれなりのレベルに到達し獲得点数も満足の域にあった。やがて、興味はスマートボール台の横にあった雀球に向かい、麻雀の役作りを覚えた。その後、友人宅を実践の場所として卓を囲んだ。楽しさはあったが、不完全燃焼だった日常から抜け出すことはしなかった。

そんな自分は当たり前の様に「サクラサク」ことはなかった。それでも春は訪れ、暗い校舎での勉強を強いられた18のころ。男塗れの環境から一変し、同じ境遇というだけで集まった男女が共に机を並べる世界が待っていた。何かから解放された自分は、その時間を自由なる時間と勘違いをして謳歌してしまった。そんな、他人には言いづらいモノクロームな生活に彩を添えてくれたのが片岡作品であった。

「出会い」
その頃から自分の手元には片岡義男氏の小説、赤い背表紙の文庫本が手放せなくなっていた。初めて書店で出会った頃は、既に出版されている何冊かが赤い背表紙の帯となって角川文庫の列に並んでいた。すぐに全てを読み尽くしてしまう勢いであったことを記憶している。それからは次の新刊が並んでいないかが密かな期待となり、書店に行けば必ず文庫本コーナーの角川の書棚を回った。待ちに待って新刊が並んでいる光景を目の当たりにした時の感動は今も鮮明に残っている。それだけハマっていたのだ。街中の小ぢんまりとした喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら無心にページをめくることが小さな贅沢と気分転換のひと時であった。
それは大学生活での日常の一端としても続き、いつしか単車が自分の相棒となっていた。
ホンダのCBX400Fだ。4ストローク4気筒エンジン搭載のロードスポーツモデルである。自分の愛車カラーは、レッド単色。バリエーションは3種類あった。他に「レッド」と「ブルー」&ホワイトツートンがあり、レッドのツートンが一番多く見かけた。当時の人気もさることながら、今や旧車絶版車としての価値はここで語るまでもないことである。「俺たちの郷」にとって、バイクの話は尽きることはない。

バイク乗り、ライダーという世界観は得たものの片岡作品のイメージとの符合は少なかった。男子校出身の不器用でちっぽけな男の隣にステディな女性が、それも片岡作品に登場するような女性が現れるには遠かった。そんな自分の心を慰め躍らせるもう一つの出会いは「浜田省吾」であった。世界観として通じるものがある気がする。

その後、映画作品を含めて「片岡義男」という作家、角川文庫との伴走はしばらく続いた。全てが手探り状態であった若き日の日常と表紙の向こう側に展開するストーリーを無理やり重ね合わせながら時は過ぎていった。60冊以上にも及んだ片岡作品は今や心の財産である。

この「片岡義男」という作家とその作品との約40数年ぶりの新鮮な再会。膨大な量の文庫本。実家の押し入れに眠っていたこの文庫本が処分されることなく残っていたのも段ボール箱に貼られた「捨てるべからず!!」というメッセージ、自らの明確な意思表示の結果であり、難を逃れた。やはりそれ程思い入れが深い作家であったことは言うまでもない。
それが改めてわが家に舞い戻り、書棚の片隅に無造作に保管されるようになってから既に数年が経っていた。「スローなブギにしてくれ」「彼のオートバイ、彼女の島」名だたる作品が連なる。何冊かを手に取ってページをめくってみた。
題名は鮮明に覚えているのに、表題作も他の短篇もそのストーリーの記憶が曖昧になってきている。
多くの作品が比較的短い文章でワンセンテンスが構成されている。まず印象的だったのは文字の小ささだ。今の自分にとっては、やはり読みづらい。そして、わら半紙のように薄茶色に変色した紙面帯が付いているものもあるし、何よりも多くが程度の良い保存状態である、ということだ。その理由は恐らく一気に読み終えていたからであろうが、表紙のデザインも好きだったし、作品全てを大切にコレクションしておきたかったからでもある。
学生時代、教科書以上に持ち歩き、手にしていたのはその文庫本であった。あの頃は確かに華やいでいたが、その都会の喧騒は自分の充たされない燻ぶった感情を遠慮なく、無意味に刺激するだけであった。何に対する苛立ちなのか、何を求めているのか?それすらも曖昧なまま、正体不明の刹那感を抱いている自分と程よい距離感で赤い背表紙は存在していた。

若い時に抱く願望、憧れに通じる何かが片岡氏の小説の中には充満していた。自分にとっての理想的な世界とは?様々なシーンは様々なストーリーのバリエーションとして、これが男の理想だと言わんばかりに主張していた。

「自分が思う片岡作品」

敢えて極端な表現をすると、自分は片岡義男氏の作品に対し大きく分けると2つの罪を感じている。
単純にいうと悪影響だ。それも自分が勝手に受けた影響である。

1つ目は、自分がつくる文章が、抒情詩的情景描写的になりがちな点である。
若い時分だが、仕事柄ファッション系のプロダクトリリースを書く機会があったのだが、文章量が多くなるという致命的な欠陥に見舞われていた。どうしても自分の世界に浸ってしまうのだ。単に文才がないだけのことかも知れないが、今でもその癖は変わらない。
罪とするには失礼な話なのだが、そうだ!あの時フラれた理由は、重たく長い文章のラブレターのせいであったかも知れない?と回想する。理由はそれだけではないだろうが。

2つ目は、落差ある現実。片岡小説の写実的なストーリー描写は、心の中に印象的な憧憬として刻まれていた。例えばラグジュアリーホテルのコンコースでの状景。打ち合わせの為にそのホテルのラウンジに向かう男性。仕事ができるダンディな大人の男のイメージがそこに出来上がっていた。
時は経ち、実際に自分がネクタイをしめ、その主人公の様にホテルのコンコースを歩いた時「空は果てしなく青く汚れない夏の季節」ではあったが現実は汗で濡れたワイシャツ姿の自分がいるだけなのだ。多くのシーンで片岡ワールドと現実とのギャップが発生し始めたのだ。
そのギャップは、小説の中に存在したその状景が余りにも理想として気高く完璧であり、大人になった現実社会とは大きく一線を画し一層大きな差となった。状景描写と心的印象面の差はともかく、仮に失恋をするシーンにおいても、雨に濡れるシーン1つをとっても何かが違う。洗いざらしのブルージーンズに合わせたまっ白いTシャツは単純にヨレヨレのTシャツでしかない。吉田栄作や加瀬大周には遠く及ばないのである。ただし片岡ワールドには現実と物語の世界を同化させる作用がある。妄想と勘違いの世界は入場無料である。ただ一方で例えば大人になってからでもバイクに乗っているその一瞬は、確かに日常から脱することができ、そこに広がっている自分だけの世界が心地よかった。そんな記憶は事実である。

全てが過去のシーンとの対話でもない。片岡義男という世界観は今の時代も継続中である。
それは、今再び読み直した作品に素直に没頭できるし共感できることが物語っている。
これから、再び片岡ワールドに触れていきたいと思う。めくるページは色褪せていても過去から現在に至る自らの旅に自己を投影し直すことでこれまでにない思いに馳せることもできそうである。

実は、片岡氏の後年の作品で未読のものがありそうだ。皆それぞれの思いに満ちた作品を紹介して欲しい。是非、拝読してみたいと思う。期待と不安が交錯するのだが、どちらにせよそれはそれでいい。