2024.01.29

「動物としての素直な生き方」

「動物としての素直な生き方」

~高等動物としての人間の使命・役割・宿命~

結論:老化に抗わず、認め赦し成熟の証として楽しむ極意 

人間として生まれ、だいぶ時は経った。年を取ると尚更、不勉強だった自分を客観視することが多くなった。物知り博士を目指してきたわけではないが、身近で素朴なことに対しても知らないことが結構多い。身近な話題であるかは微妙だが、人類という生き物である自分に立ち返って、その周辺の未知なる世界を探ってみたくなった。

「オスの発生、そして死について」 

地球上の生物の起源としての単細胞生物は、自らのコピーを作り続けるという増殖方法だけでは永遠の時を生き抜くことは不可能という判断を長い時間をかけて導いた。生物の命題は健全に効率的により多くの子孫を残すことである。その可能性の先に多細胞生物への進化があった。「オス」という存在はなぜ必要とされたのか。

オスの配偶子はメスの配偶子の元に如何に速やかに到達するかを進化の務めとした。メスの配偶子のために遺伝子を運ぶ役割である。オスは「オス」という個体の役割の中で、より大量の雄性配偶子を作る。一方、メスも雌性配偶子(卵)のみを作る個体として差別化され、多数の子孫を残す役割を得た。この役割分担が繁殖効率を高め、遺伝子の交換を可能にした。同時にこの進化によって生まれたもの、それが「死」である。新たな個体が生まれた後に古い個体は去っていく。それが「死」である。生命は死ぬのではなく、「死」を獲得した存在へと進化したのである。新しい命を宿し子孫を残せば、命のバトンを渡して自らは身を引いていく。「死」を得たことにより、生命は世代を超えて命をつなぎながら、永遠であり続けることを可能にしたのである。この見地からすると、死は生と同義語、一対である。哺乳類霊長目ヒト科の人類。誕生したのは、およそ500万年前のアフリカといわれている。人類は直立二足歩行によって脳を肥大化させ、道具や火を扱い言語を操ることにより後の文明が築かれていった。

人間の脳の発達は「高等」なる動物へと更に進化させた。科学的な進歩や発展を成し遂げる能力ばかりがその証でもないはずだ。確かに生物学的には高等であろうが実態は違う、下等と紙一重ではないかと感じる。

「男たちの郷」を形づくる上での情報基盤として、歴史を振り返ることを重要視してきた。やはり歴史は繰り返されているし、「今現在」に対する答えも歴史に紐づいていたりする。これまでの人類史に散見される「戦争」や「独裁・封建」「差別」など、その負の連鎖が途絶える事はない。そこに宗教や哲学などのサプリメントが処方されても事態は悪化の一途を辿り、再び同じことを繰り返す。そこに進歩/発展という言葉は伴わない。

仮に人間が高等なる生き物であるならば、なぜ戦争をはじめとするこの無益な争いを止められないのか。戦争に伴う死の獲得は生に向かっているはずもない。人間は、そんな愚かさの所在を頭のどこかでは認識しているはずだ。それなのにそのパンドラの箱を開けようとする愚かさから逃れられないのである。

無味乾燥な論評はさて置いて、シンプルに生き物たちを見つめてみたい。恐らく愚かなる人間の解明にはならないだろうが、人間は面倒な生き物だと改めて実感するはずだ。

一般的に生き物は「適応か、死か」という単純なルールの中で生き延びる為の術を有してきた。その為に本能に根差した欲望を真摯にかつ純粋に発動させているのだ。野生動物の群れは大概1匹のリーダーによって率いられている。トップとの従属関係は、体の大きさや性格、闘争、群れ、雄雌などの条件によって違う。例えば哺乳類は、より多くの知識を持ち経験を積んできた個体に他の個体が積極的に従うことがあるという。特に雌がリーダーである場合、その傾向が顕著に表れるという。その代表格であるシャチも例外ではない。シャチの寿命は雄の平均寿命は30年前後、長くて60年程なのに対して、雌の平均寿命は50年前後、80年程長く生きる個体も存在する。因みに地球上の生物で「人間とシャチとゴンドウクジラ」の三種類は閉経をする。そのシャチであるが、雌は閉経後40年以上も長く生きる。この老齢なるおばあちゃんシャチの豊富な経験と知恵が群れを正しく導いていくという。一方、やはりであるが雄は50歳を超えることはほとんどない。シャチは高齢の個体、そして雌のリーダーを受け入れる動物なのである。
更に昆虫も地球上の生き物として、なくてはならない存在である。自分は子供の頃、昆虫好きの少年であった。夏になると定番で身近な昆虫にセミがいた。その頃図鑑で得た知識は限られたものであった。今更ながらのセミとの出会いである。子供の頃から当たり前の様に見てきたが、セミは必ず上を向いて死んでいた。昆虫は硬直すると脚が縮まり関節が曲がる。その為、地面に体を支えていることができなくなり、ひっくり返ってしまうのだ。夏という景色を彩るセミたちだが、実のところその生態はまだ解明されていない部分が多くあるようだ。大人になったセミの命は短い、と幼心に感じていた。残酷のようだが虫かごに捕獲していたセミたちは、翌朝には死んでいるイメージが強かった。捕まえていたセミのほぼ全てがオスであったが、過密状態のままメスに出会うことなく死んでいった(殺してしまった)。セミたちに懺悔したい気分だ。最近は自分のような虫取り少年は少なくなっていて終の居場所が虫かごの中ではないかも知れないが、壁にあたって脳震盪を起こして死ぬパターンや車にひかれる最期を迎えるセミも少なくはない。どちらにせよ虫たちにとって人間との共存は生きづらさと同義語であろう。
ところで成虫になったセミの命は一週間程度らしいのだが、最近の研究では数週間から一ヵ月程度生きるのではないか、とも言われているそうだ。とはいえ、地上に出てきたら、ひと夏だけの短い命である。しかし、セミは成虫になるまでの期間は土の中で約7年も過ごす(アブラゼミやミンミンゼミなど)のだ。それは図鑑を読んで知っていた。だから虫かごの中で死んでいたセミたちを見ても罪悪感が湧かなかったのか、既にその記憶は辿れない。昆虫の中でセミは結構、長生きなのだ。幼虫の期間が長いのには理由がある様だ。簡単にいうと、卵から産まれたセミの幼虫は土に潜り、針のような口を木の根に突き刺して樹液を吸って育つ。樹液は栄養が少ないため、成長するのに時間がかかることになる。一方、子孫を残さなければならない成虫は、活動的に飛び回る。そして効率よく栄養を補給するために木の幹肌から樹液を吸うのである。ただ、この樹液も多くは水分なので、栄養分を十分に摂取するには大量に吸わなければならない。そして、余分な水分をおしっことして体外に排出するのである。子供の頃の苦い思い出が蘇る。オスのセミは大きな声で鳴いて、メスを呼び寄せる。そして、出会ったオスとメスは交尾をして、メスは産卵するのである。繁殖行動を終えたセミに、もはや生きる目的はない。セミの体は繁殖行動を終えると、死を迎えるようにプログラムされているのである。木に掴まる力を失ったセミは地面に落ちる。そして、その生命は静かに終わりを告げる。仰向けになりながら、死を待つセミ。ただ、仰向けとは言っても、セミの目は体の背中側についているから、空を見渡しているわけではない。ちょっと切ない終わり方だ。

生き物への崇拝。それは植物においても同様である。男の子の健やかな成長を願う行事である端午の節句だが、この季節限定ではないにしろ、この時食べた柏餅は記憶に刻まれている。といってもお餅の話しではなく、包んでいる葉、カシワの葉の話しである。抗菌作用もあるらしく実用面では合点がいくのであるが、話しはそこに留まらない。カシワが用いられた理由についてである。カシワはめでたい植物ということなのだ。落葉樹であるカシワは、秋になり葉が枯れるのだが冬になっても落葉しない。春になるまで枯れ葉はずっと枝についたままなのだ。新しい芽が出てくると、葉を落とす。絶え間なく「葉(覇)を譲る」ため、家族の繁栄を象徴する木、あるいは「葉守りの神」が宿る縁起の良い木として、端午の節句に使われようになったのである。古い葉が枯れ落ちる行為は、新しい葉に代を譲ることへと繋がっている。その命の継承の妙技が「めでたい」のである。そもそも冬場に落葉しないことは新芽を守ること、寒風からの防御であり植物としての生きる上での知恵である。人間の男に例えるなら、後進への道の譲り方、潔い去り方の話しであろうか。

そんな動植物、多くの生物が息づく地球環境のバランスを崩している、少なからず影響を与えているのは人間である。高度な能力を有する人間であっても地球のうねりを鎮めることはできないのである。

野生生物の最たる性格は環境に対し従順であり、種の保存と繁栄の原理に基づいているということだ。それは他の生物とも無意識な調和を図り、自らそのバランスを崩す行動を起こさないことでもある。方や人間が能力として得た才知は際限のない欲望を伴わせた。特に闘争という本能は、能力の行使とセットになった。終末へと急ぐように。人間は能力という迷路の中で彷徨い、調和という常識から容易く逸脱する。人間としての幸せを追求する行いが、人間を不幸にするこの矛盾。なぜ引き返せないのか。               

多細胞生物たる人類は本来、命を繋ぐという真摯な目的の為に死に向かっていくはずである。その過程で人間は老化というプログラムを手に入れたのである。生物の老化の仕組みとして知られているのが、テロメアである。テロメアは染色体の末端にあって、DNAを損傷から保護する役割をしている。このテロメアは、細胞分裂をするたびに短くなっていく。そして、その細胞分裂が50回程繰り返えされると死んでしまうのである。このテロメアの作用によって、細胞は老化し、死んでいく。細胞の集合体である私たちの体も同様であり、老いて死んでいくことは変わらない。

テロメアは、細胞が自ら老いるための時限装置である。人間が老いて死ぬことをより効率良く、より確実に行うために作り出された「仕組み」であり、鉄の掟である。老いることのできる生き物は、人間くらいだ。野生動物に老いはないといっていい。人間の特権である。極端な比較だが、セミの様に生殖活動を終えた後、短い時間で宿命的な死を迎えるようなプログラムはされていない。老いて死ぬというそのプログラムは、人間の場合、本来は50年くらいの生涯を想定していたようだ。人間の体の細胞の分裂回数が制限されている現実は変わらない。

しかし、私たち人類は高等なる頭脳、能力を有しながら、老いてもなお生き長らえる環境を作り上げた。そして、その環境は老熟した知恵と経験を発揮する時間と役割として、更なる人間社会の発展に貢献してきたのである。人間は、生命の持つミッションからもプログラムからも解き放たれたのだという。幸か不幸かは別として、と敢えて付け加えておきたい事態だ。この現実が、生物としての変化、進化とどこまで近接しているかは分からない。多様化という今の時代は、更に何を映し出すのであろうか。

老齢なる我々にとっての今の時間。老化という特権を得た人間という生き物だからこそ、この老後という時間と時代を問い直すべきである。今回、著者である稲垣栄洋さん、そして書籍から「老」に対する新たなる認識と勇気を授かった気がする。ここで巻末の稲垣氏の幾つかのコメントを紹介したい。私たちは、「有性生殖によって生まれたオンリーワンの存在」。「三八億年の生命の歴史の中でたった一人のかけがえのない存在」。シンプルな見方だが感慨深いものがある。「重要なことは、与えられたままにあるがままに生きる、そしてあるがままに老いる」。「成長を遂げた体と、身につけた能力を使って、人としての精神性を高めていく」。「今こそ、私たちにとって大切なことは、そのステージにしっかりと根を下ろし、しっかり老いることではないだろうか。みんなが憧れる老い方を見せること。私たちは、立派な老人にならなければならない。そう思えば、私たちには時間がない。若返りなどしている暇はないのだ。」

と結んでいる。このコメントを事細かく評する言葉は不要である。黄金色に輝く稲穂の様に、老境たる身として、共に誇れる自分、最期たるこの時こそ輝きに満ちた男たちでありたいと思う限りである。 

参考書籍:稲垣栄洋(植物学者/静岡大学教授)                                                                              著作「生き物が老いるということ(死と長寿の進化論)」 「生物の死にざま」