自説 郷流 男らしさの見識
男たちが男である限り「男らしさ」は隣にある
率直に申し上げると、男が自らの理想の1つとして男らしさを求め続けることに何ら疑問を感じない。我々の郷は男らしさを起点とした男としての考え方、生き方を肯定しバックアップしたいと考えている。
幾ら社会が変化しようとも、男の生きづらさの代名詞のように言われても、その対応と解決への手段を男らしさからの脱却とはしたくない。その為にも男らしさというものの更なる理解に努めてみたい。
この「男らしさ」、私見だが本来は身近で単純なこと、敢えて頭の中で考えるようなことではないはずだと思う。もはや、社会全体が男らしさを不必要と考えているのか、男らしさの否定は男の存在価値そのものに繋がる事態といえる。
男の存在価値という表現自体がまさしく時代遅れの発想なのかも知れない。閉塞感に満ちている中であっても、男らしさの何らかの是認はあるはずである。
<男らしさとの接点を振り返る>
多感な時期を昭和という時代の中で様々な経験をしながら過ごしてきた面々は、恐らく男らしさという感覚と自然に同居していたはずである。そう、男らしさはあくまでも無意識の中にある感覚であって、日常の中で違和感のある存在ではなかった。
その反面、遡れば男児、男の子といわれていた頃から、ごく自然な流れの中で「男」としての様々な出来事や経験と向かい合いながら生活をしてきた。
更に子供の頃、世の中では「男の子なのだから・・・」とか「男のくせに・・・」という言い回しが普通に使われていたと思う。
その男としての比喩的表現は今でも身近に存在し続けている。
私個人としては、男であるが故に「すべきこと」や「そうであるべきこと」を義務や強要として受け止めたことは全くといっていい程ない。当然個人差があり、感じ方も違うことは理解している。
また自分はなぜ男の子として生まれたのだろうか?などという素朴な疑問を抱いたこともなかった。
昭和の頃、当たり前の事実や現実に覆われた形で日常自体が成立していた気がする。全てではないにしろ、多くの人々が一生懸命に前を向きながら走り、嫌悪なる現実には正面から目を向けることを避けていた気がする。
男の子でも男としてでも、その多くの出来事に違和感や疑問を覚えることはなかったが、敢えて目を逸らしていただけなのかも知れない。家庭環境は、お国の為に命を捧げた身内がいたわけでもなく、同時に男たるあり方を強く説かれるような教育を受けたわけではなかった。要するに男としてのリスクや儚さみたいなことを身をもって感じ、それ故の不満や疑問を持ち合わせるような自分でもなかった。
ただ、子供の頃からの日常の一端として、特に男~男らしさを表象するような出来事は幾つもあったと思う。他愛のないことかも知れないが例えば子供の頃、青色は男の子の色だと思っていた。男の子はズボンを穿くものだと思っていた。転んで擦りむいた膝小僧の痛みもふつうに我慢した。そして、少し成長すると「ブルワーカー」なる筋トレ器具を購入し男たる自分に磨きをかけようと頑張った。腹筋や腕立て伏せはともかく、お金をかけてモノに頼るようになったわけだが、思ったような成果は得られなかった。当然それは自分が思い描いた男らしい肉体は得られなかったことを意味する。カッコいいズボンを穿くことができても男として叶わぬ現実はすぐ隣に幾つも存在していたし、成長するに従ってその数は増えていった。多くの出来事に出会う度に無意識という意識の中で男である自分と語らい挫折をしつつも己を鼓舞し生きてきたのだろうし、それは今も変わらない。
自らに内在する男としての在り方は継続する時間の中で否定するまでもなく自然に維持され、時に変化しながら今に至っていると感じる。
これまでの人生における他愛ない男らしさとの接点。そんな日常に点在した男らしさは、大人になるにつれてその意識と様態を変えて顕在化しはじめた。男という自我の発動がより活発な行動として自分の男たる生活を後押ししたのだ。
男たる生活といえば、あのブルワーカーも結局は押し入れの中で眠っていた。男は勝敗の可能性を頭の中では悟っていても、チャレンジを繰り返す生き物だ。たとえ費用対効果が低い結果や精神的なダメージを受けても。それが男街道だ。ブルワーカーでのトレーニングに挫折した理由はともかく、挫折とは自分の心との戦いに負けたということである。自らの性根の問題かも知れないが、挫折という感覚に対しても順応し、同時にその欲望が尽きることはない。ただ正直なところ、この年齢になるとその欲望は、単なる願望へと消沈している気がする。
郷に見る<男らしさの表象①>
男らしさの再認識として、ここでどうしても結び付けたい1つの視点がある。
生物、いきものとしての考察である。
可能性や費用対効果が低くても、多くのチャレンジに勤しむ輩の姿はまさしくオスの行動ともいえる。私見、極論ではあるが、男の行動力の原点はオスとしての繁殖欲求であり、男らしさという表現と行動を自らに導く源泉といえるのではないか。(ただし、野蛮という言葉とは結び付けたくはない)
同様にその発動の原資は「本能」である。本能は能動性とモチベーションのアップと維持につながるものだ。理屈ではない。多くの挑戦を厭わない。可能性がたとえ低かろうとも、それを自然なこととして受け入れる。やはり男はそんな宿命に付き纏われている生き物なのだ。もちろん否定論ではない。僅かでも価値ある結果を獲得するが為に男はその「らしさ」を表現し挑む。そしてその努力は結実せずとも決して無味乾燥なものとは思わない。
費用対効果なる表現をしてしまったが、人間の生活領域で「費用(お金)」という概念を築いてしまったことは、男/人間が生きることにおいて、今となっては厄介な手段を得てしまったといえるのではないか。資本主義でも社会主義でも貨幣経済というお金との接点で稼ぐ=生活する基盤を築いてきた。AIやロボット、ブロックチェーンなどの今後、そして貨幣経済の終焉?など幾多の今後予測があるにしてもそれは人間としての進化論、生活圏内の視点での考察であり、男独自の幸福論、存在性を基軸にした変化予測は限りなく不透明である。
あえて飛躍させて欲しい。生き物(人類)としての原動力を本能とするならば、人間である「男」の原動力は何であろうか?それは「ロマン」ではないだろうか。
社会に根差しながらお金を稼ぐ、労働をするその手段や考え方は男のアイデンティティとは遠く離れたところに位置している。超現実的な世界にはロマンなど入る隙間はないのかも知れない。同時にロマンに付随する心理には妄想や勘違い、曖昧さや無茶、効率の悪さが伴ってしまう。我々郷の住人たる男たちはその不器用さを否定しない。たとえ余裕が無くとも、ファンタスティックなロマンを絶やすことはしたくない。逆に成功が約束されていないことに男のロマンは存在するからでもある。
現実は甘くないが、それもまた風流である。
郷の住人にとっての男らしさ。それは「男としての装い」であり、「男心の必死で優美な飾り付け」なのである。稼ぐのではなく食っていく為の自らの演出。そこに発生するロマンティックな振る舞いこそ男らしさの表象である。
<男らしさの表象②>
オスである男の本能は時に状況判断すら鈍らせながら底知れぬパワーを導く。もう少し人間に歩み寄って更に男らしさを深掘りしてみたい。男性独自とは言い切れないが「ナルシシズムの効用」を当てはめてみたい。それを2番目の郷流男らしさの表象としたい。
男らしさの否定。繰り返しになるがそれはどこまで本当に及んでいるのであろうか。その原因と実態は安易に結論付けすることはできない。現実の世界、男たち特におじさんたちの内なる心理や感情は迷走し、世の中からはその存在意義が疑問視されているようだ。これまでの旧態依然とした男主体の価値観は逆風それも嵐に見舞われることが多く、過去から現在に至るまでの自己否定を余儀なくされた。自分を見失い戸惑い、つまづくおじさんたち。
ナルシシズムを単純に自己愛や自己陶酔として考察してみたい(性的倒錯領域を除く)。昔、ナルちゃんなる言い方もあったが、今に至っては特に昭和生まれの男たちの自己肯定感、自らを愛し大切にするマインド自体が成立しづらい状況になってしまった。男たちの中でも個人差はあるだろう。ただその個人差こそが生きづらさを感じる当事者側たる男たちの声をうやむやにさせてないだろうか。過去がそうであったように男らしさの賛否や在り方は同性である男たちの声の発出に左右されるのであろうか。
自らだけが知っている己の軌跡。平坦とはいえない道程を誰もが自分なりに歩んできた。否応なくその時代の色に染められてしまった。四半世紀という時代の進行は、おじさん達を彼らが昔遊んだ空き地に置き去りにでもするかのような変化を導いた。自らが信じる何かに拘り続けても良いものなのか?多くの変化が導いたその曖昧性は今の自分の否定と拒絶にも繋がる。そんな思いを心のどこかに隠し持ちながら、小さな反骨心、純粋で壊れやすい自己愛を原動力としながら、時に気取ったりやせ我慢をして自分自身のバランスを保とうとしている。それがおじさんと呼ばれる男たちの内なる心境でもある。
遠大なる妄想や勘違いを発出させるには、ナルちゃんたる自分を登場させる必要がある。科学特捜隊のハヤタ隊員がウルトラマンであったように別の姿があってもよいのではないか。しかしながら、多くの男たちの心の内を覗く限り、現実は決して自分を愛せるような状況でもなく、ましてやヒーローとはほど遠い。
余談はさておき、例えば幸福度という指標がある。世界価値観調査のデータでも日本の幸福度は男性より女性の方が高く、特に40~50代の未婚男性の幸福度の低さは際立っているという。分析視点は様々であろうが、やはり男性にとって自己愛への距離が遠いのは厳然たる事実である。
男たちにとって何が幸福かは一概にはいえない。ただ、たとえ非効率でありながらも、その行動を支えるパワーの源泉として先ずナルシシズムを自らに向かう愛情のベクトルと重ねてみてはどうだろうか。
郷の住人として申し上げたい男らしさ、それは自己愛。つらい世の中であるからこそ自らを尊重し大事にして、己を成立させる為の原資として自己愛を醸成する。その豊穣なる心には必ずや他者も愛し守り労わる真の男らしさの1つが存在するであろうと確信している。
概念的なことばかりでは無理があるだろう。例えば、身近な自己愛とは、趣味に没頭する自分の姿を俯瞰で見て感じてみる、そんな認識でもよいのである。
<男らしさの表象③>
いま、世の中が否定し不必要としている男らしさに対する捉え方がある。個人差・世代差・生活環境の違いなどその傾向や度合いは一定のものではない。
その実状をここで問い質そうとは思わない。我々、郷なりの考え方を追いかけたい。やはり郷の住人の価値視点は「承前啓後」である。次世代に繋げるべき価値あるものとは何か?優れた慣習でもなく、あえてここでは無粋かつ無鉄砲な表現にして、伝承すべき男らしさの事柄を2つ挙げておきたい。
1つ目は「人/女性を思いっきり愛する」こと。保つべきはその熱量!
突き詰めるとやはり強烈に猛烈に熱狂的に女性にはまって恋焦がれて愛して欲しい。(多様性が問われる時代でありながら女性という限定的な表現をすることにご理解とご容赦を願いたい)
それだけである。愛とか恋の定義はどうでもいい。ただひたすら盲目的に心のメーターを振り切って欲しい。永遠はなくともその気概、パワーは全ての源泉である。
「男らしさ」の説明、後世に伝えねばならない価値として、これ以上の言葉は不要であろう。言うは易く行うは難しだが、恋愛、これは自然発生的なことでもあるが、その為の日頃の気構え、スイッチは常にオンにしておくべきである。
2つ目、その思いは「全身全霊をかけて仕事に傾倒する!」である。
あえて昭和な時代観で表現するのなら「死に物狂いで働くこと」ではあるのだが、換言すると没頭・専心であり、のめり込むということである。
苦労から逃げずに挑む、試行錯誤をしながら猛烈に力を尽くす。特に若い諸子であればそれに5年は費やすことだ。その燃焼をエネルギーにして突き進み、先の細かなことは自分の頭で考えるべきである。そして将来、立派な郷の住人になって欲しい。
方や我々の世代。この歳になると体力勝負になる部分は否めない。生活を維持すること自体がより現実味を帯びる。身体が鈍くなったのなら、これまでの経験を活かし知恵をしぼるしかない。相応な自己成立を目指すのである。
言葉として集約するのであれば、それは「熱中すること」。単純なことである。根をつめるという表現があるが、物事に集中するその姿こそ、男たちの真骨頂であり世代を問わず相通ずる男らしさの原型みたいなものではないだろうか。
最期に追記したいことがある。特に若い諸子に向けて。勝手ながらここでは郷流と称して、男らしさなることを表現してみた。気が付いたかも知れないが、表現のくだりは別であっても伝えたいことは同様であるということ。具体的にいうとそれは情緒的思考であり情熱という精神論である。感性、心/ハートの話しである。換言すると脳をつかった思考/判断を先行させないということ。もちろん、AIの存在はそこにはない。確かに脳を活用したジャッジは、理性や倫理的判断、効率的かつ現実的冷静なる自己対応といえるかも知れない。脳の活用を否定はしない。脳も時として間違った認識を有するものであるがその指摘でもない。
ただ心で感じて動いて欲しい。頭で計算してという表現があっても心で計算してという表現はない。
脳という頭で考えて行動する領域はそんな一瞬の情動を経てからであっても良いのではないか、と自分は思う。