2024.01.29

「男性性」を見つめ直す

「男性性」を見つめ直す

「男らしさ」と「男の理想」の迷走 


「男の生きづらさ」の実態を問う 


「男らしさ」この言葉が
意味することとは? 

「男らしさ」を問う上で見つめ直すべき視点の1つとして「男の生きづらさ」が挙げられている。今の時代、男が自らの男らしさに拘ることで生きづらさに結び付く。「男はこうあるべきだ」という固定観念に縛られているという。不自由さを感じているということ。それが今の社会における男らしさに対する見識であり、そんな位置付けになってしまっているのだ。しかも男らしさ自体の様相や根拠が曖昧なままに。

その昔、自分は男であるが故に「生きづらい」という現実と向き合うことになったり、更に悲観的な思いを感じるに至ったことはなかった。日々の出来事は自然であり当たり前の実状として違和感なく無意識に肯定されていたのであろう。もしくは、自分が気付かなかっただけのことかも知れない。

その当時社会は高度成長という激しい流れの中にあった。そしてそんな時代に漂流していた男たるイメージは生活者の中に自然に入り込み、固定化され現在に至っている。今となっては確かに人として「生きづらい」世の中なのかも知れないが、男であることと関連付けて考えたことはない。

「男らしさ」とは何か?

生きづらさに繋がるという男らしさの正体とは何なのか?
「男らしさ」を学術的に表現すると「男性性」であり「男性の理想」の在り方となる。
「理想」と言う言葉を借りるならばまさしく男としての理想を追い求めて突き進んできたともいえるが、その事実を今さら否定しようとも思わない。邁進してきた過程、そして結果も男としての理想が全て叶ったわけでもないし逆にそれは稀なことであった。言い訳でもなく、自分なりに現実を受け止め納得しながら生きてきたわけで、それでよかった。

20世紀末からの「男性性」の変化の歴史。
男性の理想たる男らしさというものが否定され不必要なものへと変化し更に加速化しつつある今。
社会学としての男性性、男性学の黎明期、1990年当初は「男らしさからの脱却」という啓蒙的な傾向の動きであった。さらに社会学者は、「古くさい男らしさの鎧」と称して、その呪縛からの解放を唱えた。例えば、「女性に対する優越性」「競争に勝つこと」「泣いてはいけない」など男たちを縛ってきたとする例は枚挙にいとまがない。その「男らしさの鎧」が社会的にも取り上げられ男性問題として顕在化した。「男らしさ」を否定する社会的潮流は20年以上も前から存在していた。

敢えて懐疑的になってみたい。
確かに男らしさの鎧は数多く存在するのかも知れない。その中には単純に脱いだ方がいい鎧があるのかも知れない。ただしその内容と差別化、危機感や深刻さの度合いは極めて不透明である。それでも男らしさの鎧は脱ぐべきだという風潮、トレンドの波は一様に押し寄せ続けている。
やがてその波は、男女平等、男女共同参画社会、そしてSDGsなど社会の新たなるうねりへと継承される。まさしく男性性の追究は学術的な視点を正面に据えながら進化している。

変化の過渡期である今の時代は男をそして男らしさを語る上でも曲解や偏見など複雑さに拍車をかける要素が充満している。
特にジェンダーとセクシュアリティのあり方が話題に上る機会が多い中で、「男性」に関しては置き去りにされている感が否めない。
結局、社会や人は「男性」や「人間」の何をどの様に理解し、何を築こうとしているのか?複雑かつ変化に富む社会と人心が交錯するいま、男性について本来考えねばならいことが放置されている気がする。男の生きづらさが主テーマであるならばその解消の為の答えはどこにあるのか?同時にそれはそもそも解消が可能なことなのか、解消すべきことなのか受け入れることなのか、と疑心暗鬼な自分がいる。
男らしさからの脱却は、社会のニーズによる必然かも知れない。しかし、いつの時代もそのニーズが適切かつ適正なものとは限らない。ただその潮流に応える事が今を生きる者として重要であるならば、理論的経験的な知見を熟慮し理解に繋げていくべきだ。

ここで少し範囲を広げて、有識者の理論・見識を参考に男らしさに対する考え方を探っていきたい。

まず、パワーゲイ(LGBTの権力)の一人と称される英国の現代美術家、作家のグレイソン・ペリー(1960年3月24日生)についてである。彼は異性装者であり、英国における「社会的な偏見やファッション、弱点」について分析をしている。
異性装者であること、不幸な幼少時代を過ごした生い立ちの影響もあるかも知れないが、
彼は著作『男らしさの終焉(2016年)』の中で、伝統的な男性性として「逞しさや暴力性、攻撃性」を例挙しながら、最終的には「男らしさ」と決別することを説いている。男らしさの体現とその関わりはまさに彼にとって生きづらさそのものであったことが伺われる。
時代性やナショナリティの違い、局部的視点もあるが異論を唱える様な話ではない。
しかしながら、自分の中で素朴な疑問が幾つかある。例えば彼が異性装者であることを含め内なるセクシュアリティのあり方やその違いが自らで感じる生きづらさの度合いや内容にどの様な影響をどのくらい与えているのか?である。例えば暴力を否定することは誰もが分かり易いことではあるが、知性や感性、心や脳、男性/女性ホルモンなど内在的な要因を踏まえた上で感受する生きづらさの性差を他者が理解や考慮することは非常に難解であろう。

仮に第三者に対し、男性自らが自身の内面を極めて客観的な情報として整理し発信はできても、それが男=生きづらいという枠組みの中で論じられ情報処理されるだけでは、社会的な問題としての広義での男の生きづらさの解消にはならないし、千差ある価値観の共有はできても個人の問題解決には至らないのではなかろうか。
自らの潜在的なジェンダー意識や男らしさの認識は一様ではないだろうし、生きづらいという感覚の内容や度合いも様々であろう。小さな声の数、大きな声の数。数は単なる比率でしかない。それが多かれ少なかれ、その数や話題性という時の潮流によって全体的な世の中の傾向や男としての存在意義に影響を及ぼすとしたら、それは違和感でしかない。
当たり前の様に受け止められている「男らしさ=生きづらさ」という考え方。実際は様々な男性がそれぞれの男らしさのあり方を保有し表現行動をする。それはある意味個性でもある。十把一絡げに否定されてしまうとしたら悲しさと共に妙な危機感を感じてしまうのは自分だけではないはずだ。

続いてオーストラリアの社会学者、シドニー大学のレイウィン・コンネル教授の理論「男性性の多様性と階層性モデル」に迫ってみたい。
コンネル教授は、「男性性」を下記のような両側面で捉えている。なかなか難解である・・。
  ・ジェンダーにおける構造的なあり方の1つ
  ・多様に実践する行動者
実践という行動自体は、様々な社会的文脈の中で展開され、再度複数のパターンへと構造化される=男性性の複数化。この複数化の多くは、文化的な理想度合いや付随する権力の度合いが異なっている。コンネル教授は、これら複数の男性性のうち「文化的理想」と「制度的権力」の相乗効果によって最も称賛される男性性のパターンを「ヘゲモニックな男性性」と名付けた。
ヘゲモニックな男性の存在は、一方で「従属的な男性性」を生み出し同時に家父長制の恩恵を受けるような男性性を生み出した。また従属的な社会構造や慣習といった既成環境にいる弱者としての女性が一般男性の特権享受の為の対象へと繋がったという。
コンネル理論の特徴は男性自身の日常行動にもとづく理論でありジェンダーという視点・接点を踏まえた行動様式を多元的に検証している点である。
ただし、複数化の中で紐解ける男性性も男同士の関係性までを含めるとその論及には難があった。現代日本社会も同様であるが、多元的変動社会での男性の関係性は極めて複雑だということだ。前段で申し上げた通り、男にとっての生きづらさは一様ではない。複数ある方程式は幾重にも交差し容易に答えを導き出せるものではない。それが人間らしさであり人間が創る社会、そして男たちの歴史という軌跡、その実態だと思う。

またコンネル教授の理論では男/女としての前提分類による二元論的な説明を限界として捉えていた。「男の理想」に対する効果的因子と阻害因子の存在性は男性対女性という二元論領域に留まることなく同性間である男性対男性の中でも発動するということである。

更にここで日本の社会学者である多賀太氏の「多元的・変動社会における男性のジェンダー形成に関する一考察」を参考に探っていきたい。
多賀教授は、ジェンダーに関する価値が多元化し変化する社会として、男性のジェンダー形成過程の諸相について提議している。

ジェンダーに関する異なる価値の錯綜。自分なりに解釈をしてみたい。ジェンダーやセクシュアリティは多元論での事象である。ただ多元論であろうとそこに内包される二元論であろうと人の感情論の様に多くが入り乱れる。例えば男/女という存在性におけるお互いの利害関係はまさしく二律背反であり、その視点での男女は時として共存関係でありながら、時として敵対関係にもなり得る。男性における女性の存在は、時に「男の理想」を導き、時に「生きづらさ」を導くのである。

何を意味するかというと、まさしく人間的な領域の事象の中に男女が共存しているにすぎず「らしさ」も「生きづらさ」も性差ではなく人間領域の視点で議論すべきだと感じる。それは当然LGBTQをも含むものであるが、飛躍し過ぎであろうか。多賀教授曰く、今の社会は女性の多様性に関する研究は為されても男性のジェンダー形成の研究は乏しいという。

派生させて考えて見たい。例えば、サラリーマンとして仕事に尽力する男性と家事・育児を専業とする男性に対し、男である事を理由にした批判など評価を第三者がすることではない。その男性が妻帯者であれば、女性がそのことに対し如何に同意/共感するか、または、否定するかの問題でしかない。それは、例えば男性が高収入の場合、収入面を事由にして、否定し咎める女性は基本的にはいないはずであるが、まさしくそれは生活者たる人間の領域の話しである。言い方を変えると、大黒柱たる男の自負として収入が低い自分を責める場合は男らしさとその生きづらさに符合する考え方であるが、それを妻側が非難することは、人としての配慮の問題である。男が自ら男らしさの鎧を脱ぐ以前に、妻側の口撃から身を守る為に鎧を纏いたくなる気分である。逆にいうと、男の生きづらさは男自らが招くだけではない、ということである。

また、男性が家事をこなし、女性が企業で仕事に尽力することも同様である。(この場合は、企業戦士としての女性の生きづらさを招く遠因になるのであれば、それを社会はどう捉えるのであろうか)
男性が家事を嗜好し、女性が仕事を嗜好すること、それはパーソナル=個の人間同士の理解と共感の話である。更にその際に発生する何らかの不都合、例えば家事を嗜好する男性でありながらも料理が不得意であったり、同様に仕事を嗜好する女性だが昇進の機会がないとか賃金不平等などであるが、この場合は個人的なスキルの問題と後者においては、企業の体制の問題であると同時に政治の問題でもある、など要因が混在する。変化の過渡期という話しをしたが旧態依然とした風潮が社会にあるのは否めない。男子厨房に入らずの環境で育った男性がどの様な現実に行き着いているかは一概に判断できない。

例えば女性のジェンダー形成だけを捉えてみると、性差解消を含め進歩的な変化を見せている。特に性別役割分業観の変化は著しいと感じる。社会が複雑化すればする程通り一遍な議論になる。にもかかわらず揃えるべき情報は整備されることなく建設的かつ正当な結論を導き出すことから遠ざかる。適正という視点だけでも、考え方は複雑多岐にわたる。

一流の料理人は男性が多く、保育士が男性である事にも大きな違和感はない。敢えて違和感としたのは、適性であり、母性や父性との接点、更に生物学的な資質を鑑みた時にその判断が微妙だからである。特に業務領域としての看護、介護、保育などはジェンダーとしての適性の関りがあるような気がしてならない。自分が介護をされる側としても介護士に男性か女性か?どちらを望むのか、今のところ答えは出しづらい。男としての羞恥心の領域かは不明だがその判断は容易でない。因みに適正という視点で男性がこの職種に従事することを否定しているわけではない。時に虐待などのニュースが取り沙汰される事が多いご時世であるが、やはりこの視点も性差ではないと敢えて言い切りたい。

ジェンダーに関する価値が多元化し変化する社会において人間形成がなされるのが今の社会だという。家庭内で従事すべき事とにはどの様な違いがあるのであろうか?家事や育児に積極的に参加する男性もいれば全く参加しない男性もいる。
やはり男性性などセクシュアリティとして論じることと社会や人間を論じることにきちんとした差別化、区別が必要ではないだろうか。
人間という広義での視点になるが、例えば「人」としてのスキルが男女の関係なく、業としての利益・利得の享受バランスの偏重へと傾いている事実もある。当然弛まぬ努力の結果、才能や運など時に非合理的な状況の違いもあるかも知れない。ただ社会に倣って普通に生活をしていながらでも貧富の差が発生し、人間としての生きづらさが全てのセクシュアリティの人たちの中で発生する現実がある。
幸福度の視点にも繋がることである。男女平等の前に人間としての平等に対する亀裂がすでにある。

現実の社会は、旧態依然とした支配的な男社会の構造の中で企業文化や日本的慣習、競争という現実が継続しそれを生きづらさと結び付けて評している。確かにその潮流を作ったのが男性だとしても、その過去のあり方と今の変化を混同し男の生きづらさでさえ男を軸に男自らが導いていることと語られなければならないのであろうか。

例えば、様々な理由のもと多くの独身男性が存在する今の世の中。そこに生きづらいという主張が重なっても安易に否定することはできない。

男の理想は一定ではないし、その価値判断は様々である。男たちにとっての「幾つかの状況」は、やはり生きづらいという言葉と直結する部分はあるはずだ。

今更ながら思うことは、単純に人として生きることは容易いことではなく「つらさ」が伴うものである。これは必然であり時として醍醐味であり、成長の因子のはずである。
出世競争という名の競争に疲弊していく「男」がいるかも知れない。それは男であるが故にという存在性にだけ端を発していることではない。確かに一因はあるかも知れない。一方で男である前に人格者か、健康なのか、頭脳は明晰か、饒舌か、など一概には判断できかねる人としての領域で従因たるものが多数存在している。生きづらさへの分岐点は男であることが主因とは言い切れないのである。

多くの事を「男であることが生きづらいこと」としてステレオタイプ的に結び付けること、それで良いのであろうか?とその思いは尽きない。ただ、男であることに対して、生物学的な視点を付加すると、生きづらさに対する別の理解が得られる。それこそ、男という領域を超えた「オス」としての覚悟や妥協、役割などの自覚が加味されるのだ。この辺も奥深いところである。

男の理想も多様化しそしてその変化も加速化している。

世の中に流布されるメッセージは「男らしさ」を「男の生きづらさ」として表し、結果的に男が生きづらくなっている気がする。
そして「男らしさ」を客観的に分かり易く表現することは、もはや難儀なこと以外の何ものでない。

しかし「男たちの郷」としては拘り続けたい「男らしさ」という男性像を。男らしさは変化せざるを得ないのであろうか。せめて我々が生きているこの短い時間の中ではたとえ不条理や不都合が伴う「男らしさ」であっても、それを味わうぐらいの気骨でもうしばらく維持させて欲しい。できれば伝承させて欲しい。

今後ますますマイノリティ化するかも知れない「男たち」。それは「善良なる人間らしさ」に基づく生きものとして再定義すべきことかも知れない。

【 参考文献 】※『男らしさ;ウィキペディア(Wikipedia)』※多元的・変動社会における男性のジェンダー形成に関する一考察 (多賀大)より引用