「男を探る手がかり」
人類~男の起源 古代ヨーロッパ周辺をみる
「人間という生き物」
男らしさを語ること。男そのものや雄を語ること。人間としての男は何を考え思いながら生きてきたのであろうか。素朴でありながら深遠なる疑問が付きまとう。
人間は社会的な生き物として長い年月をかけ、独自に進化し続けて今に至った。その人間特有の変化は留まることがない。一見複雑そうなその変化の因子を少しでも発見し人間としての男を語る上でのヒントに繋げられればと思う。動物としての人類の起源から社会的な生活を営むようになった人間たちの変遷とは。
社会が組織化されていく中で文明が発生していく。この両者には密接な関係がある。文明が発生した理由は諸説存在するらしいが、明確には分かっていないようである。例えば、乾燥化や寒冷化など気候変動によって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支える為に大規模な農耕が行われ、文明が成立したとする説もある。遡ることヨーロッパにおける先史時代、つまり文字が成立する以前の人類、石器文化が営まれていた時代からである。
文明への階段を上るには当然長い時間が費やされた。
辿らなければならない時間の幅は大きい。敢えて細かく人類の進化を掲示してみる。
■猿人以前
霊長類に属する人類。その霊長類が地球上に最初に現れたのはおよそ1億年から7千万年前。時は経ち、より人間に近い人類の直接の祖先と目されているヒト亜科として区分される動物の出現がおよそ600万年前から500万年前になる。
■猿人(アウストラロピテクス)
猿人はヒト亜科のうち、ピテクス(サル)という語尾の名前が付けられている類である。400万年から300万年くらい前に存在していた。直立二足歩行により、脳が大きく成長し、空いた前足(手)によって道具の使用が可能になったことが大きな進化。200万年前になると、初めてヒト属(ホモ属)に属する生物種ホモ・ハビリスが現れ、石器を使いだした。
■原人(北京原人・ジャワ原人)
猿人の次の段階である。脳の大きさは900~1100gほどになり猿人の2倍以上となった。60万年くらい前から地球は氷河期に入り、多くの生物の適応を刺激した。50万年くらい前には、北京原人による火の使用の痕跡が認められた。
■旧人(ネアンデルタール人)
旧人類が登場したのは大体50万~30万年前。脳の大きさは1300~1600gほどもあり、むしろ現在の人間より大きい。
■新人(クロマニョン人・上洞人)
我々現代人と同じグループの新人類(現生人類)の登場はおよそ20万年前である。時代背景にも触れてみたい。猿人が石器を使い始めた約200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまでを旧石器時代、それ以降が新石器時代である。
石器時代は狩猟採集の時代である。ドマニシ遺跡(ジョージア)からは180万年前の原人(ホモ・ゲオルギクス)の頭蓋骨・下顎骨や、原人が使ったと思われる打製石器・動物の骨などが出土されている。文化的な要素も乏しく、人類がまだより動物的な生活を営んでいた時代であるといえる。
新石器時代も終盤となった頃、インド・ヨーロッパ語族がヨーロッパに移住を開始、同時に青銅器が伝播した。石器時代の終焉である。そしてヨーロッパ最初の文明であるエーゲ文明の開花に至った。狩猟採集から原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展していくのである。
「人類、文明という様相」
「古代ヨーロッパ」という時代区分はという時代区分は、このエーゲ文明の発祥(紀元前3000年頃)から、古代ギリシア都市国家群の盛衰(~紀元前2000年頃まで)を経て、古代ローマ滅亡(紀元5世紀)に至るまでを指す。現在のヨーロッパ文明の根幹を築いた時代である。同時にこの時代の歴史・文化は、都市国家という形態の中で、人類が「男/雄」というものの役割と価値を創出した源流に位置付けられると言ってもよいだろう。
今回、男たる存在を探る上で、この源流まで遡ることは自分にとって必須課題であった。
歴史は時間と出来事の繋がりである。全てを進化の結果として結論付けることではなく、生物としての人類と文明の創造主である人間の行動原理を理解する為に最初の小さなその場所まで遡りたかった。
ところで、男らしさの概念は世界中それぞれの国において独自に存在する。一言で表現し切れるような定義はない。国家としての存在性、例えば戦うことと隣接した生活文化、更に生物学的な視点など「男らしさ」の発動に結び付く諸因は、様々な事象とタイミングの中で備わっていったことであり、その理由は奥深い。男らしさの起源を探ることは、際限ない経路へ踏み込む挑戦でもある。
ただ時代性はもとより、国や宗教、文化の違いがありながらも、一定の共通原理の中でこの「男」としてなすべきこと、極端にいうと脳の発達に伴った人類に組み込まれた避けることが不可能であるかのような致命的欠陥に支配されているのが我々人間であり男である気がしてならない。もちろん、その欠陥を補うかのように時に涙し抒情詩をつくりあげたのも同じ人間なのである。古代ギリシアで,リラにあわせて歌われた詩(lyricの語源)、それが抒情詩の起源であることに更に人間という生き物の愚かさと不思議さを感じる。
また歴史という時間の経過は男の在り方に多くの変化を与えた。換言すれば「男」の在り方は変化し終えるのではなく、変化し続けているものである。
既に周知の部分であるが、日本を含めた世界において、その変化は、極めて分かりやすく我々は見せつけられている。特に昨今のLGBTQ+などセクシュアリティの考察や男自体の存在性について議論する機会や発信される情報量の増加はそれを物語っている。更なる変化、転換期は半ば当然のように訪れているのだ。
古代ギリシアから探る男の起源
今回の経路、まずは、西ヨーロッパを中心とした史実として、古代ギリシアからの時代背景を注視しながら男としての起源を探っていきたいと思う。
まず、最初に触れてみたいのは「男」(らしさ/というもの)を示唆する言葉の発生と変遷である。
ギリシア最古最大の叙事詩人といわれたホメロスが活躍したであろう時代、男性の行動を評する形容は専ら「男である」、「男であることを示す」という言い回しであった。例えば「テュモス」という表現がある。男である己は、「抑制と欲望」という相反する性質を有しながら、時として暴力的な態度を発動させる、そんな男の在り方を評する言葉である。
さらに「アンドレイア(andreia)」という表現がある。これは「戦争、武勇、性の支配」などそれぞれのレベル評価の為の表現のようだ。その語源は、男性を人類としてではなく、「オス」という意味でとらえる「アネール」という言葉だという。この概念の中核にあるのは、勇猛果敢さであり、戦場で発揮される勇気であるという。幾つかの共通点は見られるものの、ホメロスの世界観のような雄々しさ、粗暴な力の顕示など「肉体」を根拠とする傾向とは異質な精神性への変化が伺われる。戦いの主役は重装歩兵であり、秩序と規律が欠かせなくなったことに関係するらしい。ところで、この「アンドレイア」だが、その意味合いには逆境にある時の果敢さや不運に立ち向かう一徹さも含まれていたという。この思考傾向が意味するところは、精神論的な価値の付加であり、人間的な側面が垣間見える部分である。「オス」=動物的という視点から、「人間としての男」への変化だと結び付けても強引ではないはずである。(参考書籍)「男らしさの歴史Ⅰ」 ※第Ⅰ部古代ギリシア人にとっての男らしさ (A・コルバン/ J-J ・クルティーヌ/G・ヴィガロ監修)
古代ローマ人とっての男らしさ 古来からの言葉が示唆すること
言葉は多くのことを今の世に伝えてくれている。我々にとっても馴染みのある語彙の存在。
男性を表すラテン語「ウィル」(vir)という単語だが、例えば「完成された人間、最も完璧な男」を指す「virillity」のように以後西欧語として長きにわたって定着した。ただこの「ウィル」 vir という言葉は、全ての派生語のもとでありながら、フランス語からは姿を消したという。以来、フランス語では、ラテン語の「ホモ」 homo に由来する「オム」hommeという言葉を用いるようになり、人類としての人間/男性の双方を意味するようになったということだ。
このように「言葉」が示唆する方向の背景には男らしさを表す意味との繋がりがあり、時代ごとの男らしさの在り方の一端やその微妙な変化の過程を知ることができるのである。
また、この男らしさの在り方だが、言語という手段以外に表れているのが、男の「行動」としての側面である。例えば、スパルタの若者も中世の騎士においても小心で臆病な男は否定され、鍛えぬくことの必要性を説くなど、その力関係の中で支配は組み込まれた。それは長い間、男として一人前になる為の価値判断基準であった。この力関係や支配としての構図は、換言すれば、戦争や統治としての行動自体のことであり、男らしさの体現の場を指したのである。視点を日本に向けてみると、武士社会や近代の戦争~植民地支配の構図との類似性が垣間見れる。
時代を超えて脈々と存続する男らしさ、そして変化する男の行動とその存在性。変化すること自体に意外性は感じられない。ただ、変化し終えない史実や現実、繰り返されるその変遷の規則性には、大きな興味を感じる。
また、歴史を辿れる今となっては理解に難くないが、その移り変わりの一端として「男らしさ」の存在価値が揺らいだ時期も存在し、そんな時を経て今がある。例えば紀元前5世紀、男らしさを身につける為の育成モードが衰勢へと傾いた。
要約すると弱さの肯定であり、権威主義的ではないということだ。民衆の意思尊重の実現に近づいたことにより、人民の声への傾聴などある意味、民主主義的な現代国家の思考に類似する点が伺われる。換言、極論をすると平和な時代~環境は、男であることそのもの、そして男としての存在性が揺らぐ状況と繋がっていると思えてならない。
歴史とは後から検証できるもの。現代に至ってもフェミニズムが沸き起こり、男女平等と謳われること自体は一つの到達点ではあるかも知れないが、終幕でも落着でもないのだ。これまでという過去、その過程において男の在り方の変化はあっても強権的であり支配的であるなどの男としての根源的な評価や存在性が排除されることはなかった、いやできなかったようだ。あくまでも私見ではあるが、やはり人間がそして男が生物である限り、その本能に通ずる部分は容易には変化できず、いや変化してはならない領域であろうと捉えるしかない。それ故に人間は涙しつつし戦うしかないという矛盾に満ちた定めを負っているのかも知れない。
当たり前のように繰り返される戦いの歴史。その「欲望と支配」の発動は、人類が霊長類のヒトとしての必然性に満ちた進化の表れなのであろうか。
地球における食物連鎖の話しを持ち出してもきりがないであろう。ただ一生物に過ぎない人間、そして男の本能に根差す欲望は極めて厄介である。高等なる生き物とは何を指すのか?純粋なるオスとしての本能、そして宿命に対して謙虚になることはどうしても不可能なことのようである。
(参考書籍)「男らしさの歴史Ⅰ」(A・コルバン/ J-J ・クルティーヌ/G・ヴィガロ監修) 人類の進化 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org>wiki> 先史時代の世界(人類の起源・移動地図・年表)https://ch-gender.jp>Home>