2024.01.26

世界史から見つめ直す ~神話の世界から史実へ。ヨーロッパ史の起源を探る~

世界史から見つめ直す                                                                                                                          ~神話の世界から史実へ。ヨーロッパ史の起源を探る~

古代ギリシア文明の系図

「古代ギリシアの興隆まで遡る」

まず、諸説ある古代ギリシア、その時代区分であるが、いわゆる総称としてのエーゲ文明(バルカン半島やエーゲ海の島々を中心とした信仰や言語を交えて繁栄)として文化的に栄えた時代から紀元前ローマに支配されるまでの期間を指すようである。

初期のエーゲ文明は、エーゲ海の南部に位置するクレタ島で発展した「クレタ文明(紀元前2000年頃~)」であり、バルカン半島から南下してきたギリシャ人の一部のアカイア人によって滅ぼされる紀元前1400年頃まで続いた。その後、文明の中心はクレタ島から、ペロポネソス半島のミケーネへと移り「ミケーネ王国」が誕生した。紀元前1200年頃まで続く「ミケーネ文明」は、ギリシア人のこの王国を中心に栄えたのだ。

因みにエーゲ文明の最初期の「クレタ文明」の存在は、1900年にイギリス人考古学者エヴァンズの発掘によってその存在が証明された。そしてクレタ文明の遺跡の発見は同時に「線文字」と呼ばれる文字の使用の事実の発見に繋がったのである。さらに線文字の解読ができたのは1953年であり結構最近になってのことである。

ミケーネ文明が崩壊し、ギリシアは人口が激減し線文字も失われた。それにより紀元前1200年頃から紀元前800年までの約400年間についての史実は明らかになっていない。この空白の時代を「暗黒時代」と名付けられているのだ。

この暗黒時代の間に先住民のギリシア系イオニア人とドーリア人が移住してきて、ギリシア民族が形成された。そして青銅器の代わりに鉄器が使われるようになり青銅器の時代は終焉を迎えた。

暗黒時代」から都市国家形成へ

紀元前800年頃からギリシア民族は一か所に定住して「ポリス」と呼ばれる「都市国家」を形成し始めた。地中海の各地に進出して「植民都市」を建設をしたのである。

東方は小アジアのミレトスやビザンティオン(現在のトルコのイスタンブール)、西方はマッサリア(現在のフランスのマルセイユ)、南方は対岸のアフリカのキュレネなどである。

それまで何の権利ももたなかった平民たちも植民活動や貿易によって経済が発展しはじめると裕福になり、武器を自分で揃え重装歩兵としてポリスの防衛に参加するようになった。

古代ギリシアを代表するポリスのアテネは、王政から貴族政へ移行し貴族と平民が参政権を巡って対立していた。やがて、紀元前七世紀~紀元前六世紀初頭には平民を守るための法律が発布されその後の民主政の確立に繋がっていく。

一方、アテネとは違い戦士団を支配身分とする共同体、その代表的なポリスが「スパルタ」である。スパルタは奴隷や半自由民を多く保有していたので、武力によって度々発生していた反乱を押さえつける必要があった。その厳しい教育が「スパルタ教育」であり優れた戦士の育成に繋がった。

アテネが民主政へ移行した後、アケメネス朝ペルシア帝国がギリシアに対して侵攻を開始した。そこで、ギリシャ人たちはアテネを中心としてポリス同士の連合軍によって応戦した。これがギリシアのポリス連合軍対ペルシア帝国による「ペルシア戦争」の勃発である。スパルタの重装歩兵、アテネの海軍の「サラミス海戦」の功績による勝利、そして続くプラタイアの戦いでもペルシア軍を下し「ペルシア戦争」はギリシア側が勝利した。

勝利した連合軍の中心であるアテネはエーゲ海のポリスに声をかけて「デロス同盟」を結成する。ギリシアでの影響力を強めたアテネであったが、もう1つの代表的なポリスのスパルタを盟主とするペロポネソス同盟との対立により紀元前431年「ペロポネソス戦争」が勃発してしまう。ポリス同士の争いである。

このギリシアの二大ポリスの衝突は、アテネの疫病流行などによりスパルタが勝利する。スパルタはペルシアから金銭的援助を受ける代わりにスパルタ=ペルシア同盟を結び、ペルシアのギリシャ干渉が強まるきっかけとなる。戦争に勝利したスパルタであったが貧富の差の発生などスパルタ市民の求心力は失われ軍国主義の規範が崩壊した。
そしてポリスやペルシアの抵抗によって、ギリシアは再び戦禍(コリントス戦争)に見舞われる地となった。
この戦争でスパルタは敗れるのであるが、ポリス同士の抗争という形で戦争は続きそれがギリシア全体の衰退へと繋がっていったのである。ペロポネソス戦争敗退後のアテネは貴族寡頭政治によって民主政は退けられていた。その後、民主政は復活をするのだが、扇動政治家(デマゴーゴス)によってアテネの民主政は衆愚政治となって徐々に衰退していった。

マケドニアの台頭とローマの侵略

ギリシアの衰退は次なる戦争を導いた。北方のマケドニアの台頭である。紀元前338年にポリス連合軍がカイロネイアの戦いで敗れ去り、マケドニアがギリシアの主導権を握るのである。マケドニアの支配はギリシアの文化とオリエントの文化の融合という「ヘレニズム文化」を誕生させたのである。マケドニアのアレクサンドロス大王の死後、ギリシアはアンティゴノス朝マケドニアとなる。さらに紀元前146年にはギリシア全土がローマの属州となるのである。こうして古代ギリシアの時代は幕は下ろされた。

古代ギリシアにおけるポリスのそれぞれ

ある意味意外ではないのであるが、紀元前の時代から、既に人類史は戦争という覇権抗争の中で文明の栄枯盛衰が繰り返されていた。その戦時下の社会構造であるが、残存史料は少ないが、例えばジェンダーに関する史実に目を向けてみると民主政でありながらも女と奴隷に参政権がなかったようだ。また、アテナイの女はスパルタの女よりも抑圧されていたとみなされている。
スパルタでは市民のほかにヘイロタイと呼ばれる隷属農民とペリオイコイという参政権のない人々がいた。どちらにせよポリスを構成する市民とは成年男子のことであり、それは国を運営する者を意味した。この男子たる存在性については改めて触れてみたい。

古代ギリシアの繁栄と衰退、その歴史的な経緯は、その多くが以降の時代の流れの中で消え去った多くの国々が経験する史実と重なるものがある。

ギリシア特有の自由と民主主義という価値、合理的な精神、多くの文化的起源と尊厳はその後のヨーロッパ世界の展開に繋がっていく。その展開が文化的な礎になったことはともかく、人間のそして人類の抗うことのできない負の連鎖、不変性のようなものを感じざるを得なく、郷の中で紐解くべき命題の1つとしたい。