2024.01.30

「おじさんたちの人知れぬ秘めやかな悩み」

「おじさんたちの人知れぬ秘めやかな悩み」

おじさんたちが直面した存在危機の景色

不運か自己責任か。世渡り下手なおじさんの暮らし方

【今どきのおじさんの心境】

60年という時の経過。おじさん免許を取得して久しい。何かとおじさんが揶揄されてしまうしんどい時代である。要因は、イエローカードを連発されるおじさんが増殖したせいなのか、社会の空気感がおじさんを標的にさせているのか、どちらにせよ今おじさんたちはアウェーな環境にいる。

叩かれるおじさんが続出している社会では、どうしても目には見えづらい地雷の存在を過剰意識して臆病になる。仮に目に見えても、自らの経験値ではそれを地雷だとは思えない。人として男として普通に歩いてきたこの道もいつの間にか幅が狭くなってきている。訳のわからない閉塞感を感じているおじさんは多いはずだ。多くの抗えない事実と現実の中で、その細くなった道をするりと通り抜けられる、そんな技を手にしたい。

そもそも「おじさん」とは?

細かな分析はさて置いて年齢目安でいうと43歳から69歳までがおじさんの大方の括りらしい。ただ外見的な印象や個々の認識の違いによっておじさんのあり方は多少変化する。コアなおじさん年齢は50代半ばであろうか。判断指標は年齢だけのことではないが、特に現代の高齢化社会においては、平均寿命とおじさん~おじいさん人生の時間推移は密接に関わると 思われる。参考までに確認をしたのだが、昭和時代からの平均寿命の変化には驚かされる。

     

上記別表、厚生労働省「平均寿命の年次推移」によると昭和22年の男性平均寿命はなんと50.06歳である。戦後2年にも満たないタイミングでの数値、理解は容易い。まさに戦国時代の人間50年の様。そこから寿命は急速に伸びたのだが、自分がこの世に生を受けた昭和37年では≒66歳である。そして、2050年には女性の平均寿命が90歳を超え、男性でも84歳に迫ると推計されている。人口や社会環境の違いはあるだろうが、要は多くのおじさんとおじいさんが長い期間生存することになる。その年齢と時間の幅の中でどの様な日常生活が展開されるのであろうか。

<おじさんの居場所>

それは大別して幾つか存在する。居心地の良さ悪さも、時として状況変化に見舞われるのが要注意ポイントだ。主としてオフィスと家庭、そしてプライベートの3つを区分けとしたい。

オフィスの中では、働かないおじさんの烙印を押され、ハラスメントの常習者扱いになる。おじさん構文やインスタ投稿に対する非難、とどめは「臭い」や「キモい」であろうか。考え直してみるとこの状況は家庭内でも発生していることがままある。おじさんは我が家でも家事を平等に担えと言われながら、時に気を遣って発した中途半端なジョークは「キモい」という判断が下される。
もはや自宅にいる時ですら、その居場所は脅かされている。総じてその状況を生み出す元凶は「対人」の問題である。その対人が男性であるか女性であるかは一概にはいえない。対人というこの動く地雷がすぐ傍に潜んでいるこの場所がおじさんの居場所なのである。ただこの対人という視点において全てが居心地悪き環境に繋がるとは限らない。ニュース沙汰にもなっていたが、おじさん自身の品行の問題も伴うが、お酒を飲みながらの夜の時間と空間は極めて心地良いものである。業務上のオモテナシだと分かっていながら。そこにいる対人たる女性はおじさんというお客様をキモいなどと言って責めたりはしない。それをプライベートな時間とするかは別として、スポーツ観戦や休日の趣味に没頭する時間など心地よい居場所はまだ存在する。限られた保護区の中にある隔絶された場所として。

<高齢者渋滞。それぞれのおじさん認識>

還暦になり既に人生の終盤に差し掛かったおじさんとして最近ふと思うことがある。今の自分の状況というか、自分がどれだけどの様に年をとってしまったのか、という真実・現実の認識が極めて曖昧だという点だ。上を見てもキリがない程の高齢化社会。場所や時間帯による違いはあるが、周りを見渡すとたぶん自分が一番年長者だ!という場面に出くわすことも増えてきた。昔行きつけだったBARの扉を久々に開けると、もはや同年代の姿はない。

一番曖昧なのは「疲れ」である。血圧とか尿酸値も、皺、薄くなった頭髪、白髪など客観視できるものは分かり易い。他者との比較がそのまま自己判断の目安になるわけではないし、それで一喜一憂していても意味がない。ただ疲労感ばかりは気になってしまう。仮に同年代の人と同じ距離を一緒に歩いたとしても自分の疲労感が隣にいる方とどれ程違うのかは分からない。年相応の疲れ方とは?漠然とした健康不安は漠然とした疑問を伴うものだ。客観的であるはずの数字だらけの血液検査の結果表をみても、見ている限り目がしょぼしょぼするだけで痛くも痒くもなく、冷や汗をかくこともない。数字の変化に一喜一憂する感覚も鈍ってきた。
そんなどうでもいいことを考えながら自然に日常の1つの出来事として「疲れ」は馴染んでいく。最近、電車の中で空いている席を探す自分がいる。数年前までは「男たる者」節操なく席取り合戦をするなんて!とクールに傍観していた。あくまでも自分流、個人の考えであり男としての拘りなんていう程のことでもなく、当然「今どきの男の生きづらさ」という意識に及ぶことでもなかった。
そんな自分もこの年齢になると疲れには勝てない。電車では座れた偶然を素直に喜び、その小さな幸運を「ほっ!」と感じてしまう。但し、余りにも直ぐに座れてしまう幸運という現実は、下車駅に到着するころになると逆に座り疲れ?のような妙な疲労感に見舞われることがある。やれやれ、こんなどうしようもない現実、笑い話にするしかないのであろうか。加齢を感じると共に諦めみたいな感覚が自分を襲う。気持ちの中に少しずつだが行動の制約が生まれ続けているような嘆かわしい気分なのである。
一方では、自ら率先して、席を譲ったり、不自由を抱えている人に対して躊躇することなく声をかける自分がいる。先日、電車でたまたま傍にいた足の不自由そうなご老人の下車を手伝ったのだが、駅のホームに留まらず、結局タクシー乗り場まで付き添った。全く知らない方の腕や腰に触れる感覚。相手からも身を委ねていただいている感覚。普通ではあり得ない人との接触に妙な幸福感というか安堵感みたいなものを感じた。

余計な羞恥心というと微妙だが、多くが私個人の性向かも知れないが、周りの目が気にならなくなった感じがある。羞恥心の欠落とあえて表現するのなら、それもおじさんの性向の1つなのであろうか?

周りの目が気にならなくなる=気にしなくなるとはある意味、恥も外聞もない様であり、なりふり構わず体裁を気にせず、ということに繋がっているかも知れない。それが超わがままで横暴なおじさんの実態と紙一重であるとしたら落ち着かないものがある。

同時に些細なこととの接点が増えた。ストレス化の度合いというか、これまで気にならなかったようなことでも苛立ちを感じる自分がいる。男性の更年期障害?おじさんたる自分の性格変化の問題なのだろうか。交通機関でも確かに歩きスマホで乗降の列を乱す人や鞄の持ち方など無作法な振る舞いの乗客を見かける機会は多いわけで、なかなか大らかにはなり切れない。「狭い日本そんなに急いでどこへ行く!」そんな緩い昭和な交通標語が懐かしい。

時にバスでの出来事。「大丈夫ですか?お席代わりましょうか?」と自分が座ったまま声をかけると大概「大丈夫ですっ」と返答される。バスにおいては席の形態や設置状況で対象者と目線が近く、身体を動かすことなく、ついまずは声をかけてしまうのだ。やはり前提として疲れている自分がおり、まさしく腰が重い自分でありながら。当然、何が大丈夫なのかは分からないが、その後、周辺を見計らって一目散に空いた席を確保する御方を見ると、ちょっと寂しい様な微妙な気分に包まれる。ただ、当たり前のように席に座る方よりは、この一瞬の謙虚な日本人気質が好きである。

微妙といえば年齢は見抜けない。本来、公共マナーの類は特に年齢による明確な差別化は少ない。まさに「高齢者や身体の不自由な方」などのように年齢を示唆するものではない。明らかに年長とわかる場合は別として、譲るか否かで躊躇することもある。見渡す限りの年配者、その中では少しは若いかも知れない自分。大多数を占める高齢者は、今後ますますこの様な混戦ともいえる状況の中で生きていかなければならないのであろう。
それが高齢化社会の風景である。
現実問題として還暦過ぎのおじさんが気になるところはおじさんの次なるステージだ。「前期高齢者」なんていう医療制度の区分けで用いられている語感の悪いこの領域は66歳からだそうで自分はスタンバイ中といえる。
前期高齢者、この予備軍たる状況にいる自分としては極めて居心地の悪い気分であるのだが、この様に小さなライセンスの獲得みたいなことの積み重ねが「おじいさん」への進行ストーリーなのかも知れない。

<結局、変なおじさん>

人間はある時期を境にもう一度子どもに戻るといわれる。男の子として生まれ、男として育ち、どう熟したかは別として漸くおじさんに達した。人生は楽ではないことは身に染みている。思い起こせば全てが「挑戦」だったような気がする。例えば小学生の頃の女子のスカートめくりだ。今どきであればセクハラに該当するのであろうか。スカートめくりが挑戦の1つとして男の子時代の感覚と結び付けるのは些か短絡的だがちょっとその周辺心理を追ってみたい。

幼少期の男の子における女子という他者への極めてラディカルな行動であるスカートめくり。因みに好きな子に意地悪をする、この様な行動を心理学では「反動形成」と呼ばれる。無意識に自分の気持ちや感情を抑圧していて素直に表現できず、その反動で正反対の行動を取ってしまう矛盾に満ちた行動である。似たような類のことは大人になってもあるかも知れない。ただ、少年のような純粋さとは一線を画している。敢えてクールに距離を置いた態度を装う、それが大人になってからの行動パターンの1つかも知れない。それをそのまま男のやせ我慢と不器用さ、という言葉に置き換えることは難しいだろうがそのちょっとした我慢、偏った我慢がハラスメント発動への導線になっているのであろうか。

ただおじさんを敢えて擁護するなら「不器用」という言葉を使うしかない。色々な意味でのパフォーマンス、自己表現能力も個人差はあるだろうが、総じて伝達力たるパフォーマンスが低い輩も多いのかも知れない。
おじさんも昔は少年だった。そして青年だった。やがておじさんには世の中への「貢献」という新たなるフェーズが待っていた。人は誰だって経年劣化する。原状回復が難しいのがおじさんであり、単純に老朽化と見なされることが多い。おじさんの経年劣化は革製品のように味わいとして、好意的に捉えて貰うことは少ないのである。

スカートめくりはともかく、競争社会で生き抜く為の予行練習として少年からの脱皮が求められる。中学になってから観た「小さな恋のメロディ(1971年)」のラストシーン。ダニエルとメロディの2人、トロッコに乗って野原の線路上をどこまでも走って行くその姿。それを永遠の証として信じ胸打たれた自分がいた。
Crosby, Stills, Nash & Youngの『Teach Your Children』が心地よく流れる。甘く切ない思いは、大人になってからでも失うべきではない人としての情緒。やがて他者への優しさとして還元されるべきものであるから。それは年を重ねた男たちも同様でありながら、通り過ぎた昔の出来事にされてしまった情緒は、もはや心の奥深くに仕舞われているだけとなっているのかも知れない。
おじさんはいま何を求めているのか?成果、癒し、安らぎ、楽しい会話、目の保養など様々な生活シーンがある。求めている願望が叶うか否かは別として、どうしても昔は良かったと思ってしまう。これまで個人的にはその様な感覚は理解に難しかった。先達者に対し、具体的に昔の何が良かったのかを質問してみたい、そんな思考が勝っていた。いま自分ごととしてその良かったであろうことを自問自答してみた。なんと自然と即答できる自分にいつの間にか変化していた。ただ、昔との比較をすることにその答えがあるわけでもなく、どちらかというと郷愁、ノスタルジーのようなものである。
変に過去を美化することではない。どちらかというと現代のような充たされた世界では気づきづらくかつ培われづらいものがある。不完全・不安定・不足・不衛生など「不」が付く世界にこそ、逆に美徳の存在を感じる。この半世紀で得たものと失ったものは何か?お互いに考えてみよう。根深く染みついた慣習とそこから伝承された気質は今やおじさんに内包する頑固な汚れとして残存し続けるだけなのかを。
人として、男たる自分の本質に近づき、諦めと赦しを自覚できる自分がいる。野暮ったい自分でも変わらぬ願望と意欲という欲を持ち続ける。時に後悔することを後悔しながら、馬鹿な男だと自信をもって吹聴していっても良いのかも知れない。
<結論>
「教訓」
 不器用な男だと自認し、やせ我慢をしながら自らを鼓舞する。
熟しきる手前であるおじさんは一番美味な果実だ。だが時として、早々に枝から落ちてしまう。落とされてしまうことも多い。ただ、まだ熟しきっていないのだから、たとえ落ちたとしても、つぶれること無くちょいと転がって傷浅く次を目指せばいい。世の中がそんな猶予をおじさんに与えてくれれば御の字だ。