2024.01.25

「悩みの裏側 part1郷流おじさんの処世術」

「悩みの裏側 part1郷流おじさんの処世術」

男たちのパラドックス、いま必要なのは逆転の発想

【生き甲斐って!? 男たちの本音】

現役引退と隣り合う立場のおじさん世代。終身雇用が崩壊し、人生100年といわれている令和のこの時代。おじさんの両脚は、自らの意思とは関係なく止まることを許されないトランポリンに乗せられているようなものだ。

「つかれたなぁ・・」

やりがいはもちろん、居場所も存在価値すらも揺らぎつつあるこの世代に、今の社会はもっと働け、もっと頑張れ、役立て!と執拗に恩着せがましい親切心と期待感を抱き合わせたような可能性と手段を解いてくる。高齢に片足を突っ込ませておきながら、いつまでお尻を叩かれなければならないのか?そりゃ、おじさんだって頑張りたいし(いや頑張るというより張り切りさせて欲しいのだ)役立ちたいのは山々である。理屈としては理解しているが、言い訳でもなく体力気力の衰えという現実と向かい合いながらのことなのだ。世の中の現役世代が思っている程、頑張るという行いは容易な事ではない。昔とった杵柄なんてない。自分なりの「杵」はあるものの今のご時世、無用の長物であることの方が多いのだ。
特に仕事との関りの中で「生き甲斐」をイメージすることは難しくなってきている気がする。私の周辺でも「生き甲斐なんて・・」というおじさんは多い。しかしながら、そもそも生き甲斐とは?とそんな素朴な疑問が浮上してしまった。新境地の開拓を目指し探っていきたい。

課題:生き甲斐って!? 男たちの葛藤
「生き甲斐」。まずこの言葉が意味するところの基本概念なのだが、やはり分かり易そうで単純にはまとめ切れない奥深さがあった。まず、「生き甲斐(いきがい)」とは、生きる甲斐、すなわち「生きることの喜び・張り合い」「生きる価値」を意味する日本語の語彙である。

シンプルな内容である。そして、興味深いのは、この「生き甲斐」という言葉は日本独自の概念であったということ。その起源は平安時代まで遡る。「甲斐」という言葉の語源は、貝殻を意味する「貝」からきている。平安時代、貝殻は非常に価値あるものとして、行動することの価値と貝殻を結び付けていたようである。

この言葉自体の伝播であるが、長寿地域を意味する「ブルーゾーン」の概念を広めたアメリカの研究者・作家であるダン・ベットナーが、日本/沖縄の長寿の理由について、そのライフスタイルや価値観を探求した際、説明表現として用いた「生き甲斐」をそのままikigaiとして言及したことで、欧米でも広く知られる概念となったという。出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』参照

この「生き甲斐」だが長寿や生活の質の向上と関係があるという。前述の通り、生きることの喜び、張り合い、生きる価値などは、換言すれば「得意なこと」「好きなこと」「社会からの必要性」「報酬・収入」などの諸要素と符合するものであり、生き甲斐の概念そのものである。今更でもなくこれまでの人生の中で、特に世に出て働くようになってから身近なテーマであったこの「生き甲斐」という言葉。確か若い頃は、「男としての」という観点で探っていた部分が強かった気がする。
余談になるかも知れないが、似た言葉づかいとして「甲斐性無し」がある。諸説ありそうな「甲斐」の語源だが、戦国武将 武田信玄が納めた甲斐の国が由来との説もある。勇猛果敢に武功をあげた武田家武将たちの姿から甲斐性という言葉が生まれたと言われている。甲斐性とは、健気・やる気にあふれた気質を指し、甲斐性無しは、やる気がなく頼りない・情けない様子を表す言葉である。
主にお金にだらしない人、また仕事や恋愛関係にだらしない人を例える言葉であるようだがこの事例が示す通り、この「人」とは紛れもなく「男性」を指す。
さかのぼること平安時代そして戦国の世。古来からの日本語~大和言葉の妙、感慨深いものがある。諸説あるのだろうが、興味深いのはこの「甲斐」という言葉は「貝とお金と男性」(古代の中国で貝殻がお金のかわりに用いられていた)という視点で密接に結び付いていることである。更にこの「甲斐性なし」(かいしょなし)という言葉。最近どれ程使われているのかは不明だが、金遣いが荒いことに留まらず、やる気がなく頼りなく情けない、経済力が低く無責任で言い訳がましい、更に女性にだらしない等々その意味するところは最悪事例のオンパレードである。同性の男としてかばうにかばいきれない諸要素である。男たるや!を訴求する男たちの郷として是非とも追究したい言葉である。

男としての小さな生き甲斐
「生き甲斐」は特にその存在の有無を筆頭に内容自体も時間の経過とともに変化する。例えば、現役で働いている間と退職後とでは生き甲斐が変わっていて当然である。そして年を重ねてくるとどうしてもこの生き甲斐というものは過去形になってしまう。
本来、生き甲斐は時限的なものとして消滅してしまうのものではないし、せめて変化するものであって欲しい。同時に必要性に迫られるものではないが、敢えて「男として」やり残した事を改めて手繰り寄せて、生き甲斐として再浮上させたいと考えることは悪くはないはずだ。ただ別稿で既述したが、男としての生物的な役割を終えた後、即ち晩年という時間の中でこの「生き甲斐」をさらに追求できるとしたら、まさしく高等なる生き物としての人間らしいスタイルになり得るのかも知れない。

しかしながら現実はその生き甲斐を特に「男として」の部分で求めれば求める程、単純そうな内容であってもその実現可能なイメージからは遠ざかってしまいそうな気もする。この年齢、おじさんになってからだと、やはり制限、限界はある。同時にこの生き甲斐自体を持つべきものであろうか?持てるのであろうか?とそんな感覚が過るのである。ただ、自分の可能性を育て直す勇気は失いたくはないのである。

因みに生き甲斐の「甲斐」であるが、「行動の結果として現れる印」「努力した効果」「期待できるだけの値うち」のことでもある。そんな風に表現を変えて見直してみると、おじさんにとっての生き甲斐の可能性は意外に幅広く存在する気がする。些細なことでも執拗に追いかけてみる。考え方としては上記の意味合いに(小さな)とか(少しの)という言葉を添えてみることだ。例えば「少しだけの努力と小さな効果」である。消極的とか妥協などということではない。例えば、「かみさんにアリガトウと言葉にする少しの努力~結果としての(ほぼ反応がないのだが)小さな微笑という効果」、はたまた「若い女性にモテてみたいな!と多少の気遣いをしたら翌日、デスクにお茶が置かれていた」(これって昭和?)といった具合だ。といってもそんな小さなことでも実現は難しいかも知れない。生き甲斐という視点からややずれてしまったようだが、敢えて「自分の生き甲斐はかみさんの笑顔だ」「社員の笑顔だ」なんて言えたら、かっこいい。(無理かっ?)
ところでそのおじさんの生き甲斐についてのデータがある。やはり生き甲斐として挙げられるのはごく普通の内容だ。家族や仕事、趣味などがそれである。同時に興味深いのは「生き甲斐がない」という回答である。大きな驚きはないというか男にとってはこちらの方が普通なのかも知れない。

世の中の仕組みが変わってしまった現代社会においては、おじさんの出番や活躍の場面は自ずと減少している。それは避けられない事実。当然、なかには運と自助努力によって華々しいステージを維持できる強者おじさんもいるだろう。

ただ大部分のおじさんが凡庸であり、個として極まった武器を有しているわけではない。今はダイバーシティの時代である。そんなカタカナ言葉が闊歩する潮流だとしても、おじさんにとっての現実は別の世界に存在する。世の中は新鮮で進歩的な事柄や変化に注目し、メディアとしてニュース価値が低い内容に関しては、それが多くのおじさんが抱える懸案、同時に社会的な問題であっても、取り上げられる頻度は低く更に大衆の興味とは交わらない。世の中は途方に暮れているおじさんの姿を見るよりも、叫びまくるハラスメントなオヤジのニュースを嗜好しているのか。

生きていれば失敗や多くの困難に見舞われることはある。仮に社会が新たなチャンスして、梯子を用意してくれたとしても上る術がないおじさんは困惑するばかりかも知れない。

その難解な梯子を上れるおじさんもいるかも知れないが総じて若者や女性、LGBT-Q⁺の人たちの能力には勝てなかったりする。換言すると、生物学的視点や男女平等、男女共同参画社会などの諸状況に鑑みても高度経済成長期を知っている昭和世代、男性優位社会の体験者たる我々おじさんはどうしても逆境の時代なのである。
ただ世の中の識者は生き甲斐に繋がる梯子は幾らでもあると示唆し、上るか否かは自分次第だという。
「生き甲斐がない」という事態を軽視することは危険である。自らで行動を起こし、その結果を見出せなければ、生き甲斐とは遠く離れた世界に留まるしかないのであろうか。

進歩的変化として時代に呼応するような「柔軟性と多様性のある生き甲斐」の創出がいまの生き甲斐の理想形だといわれる世の中。一方で「生き甲斐がない」と答える中年男性の存在とその理由を時代の異端者の様でしか捉えない傾向は寂し過ぎるものがある。

おじさんに限っての話ではないかも知れないが、仕事を辞めた途端、燃え尽き症候群になる。在職中にもそれは始まり、中年期以降の仕事での自己実現と生き甲斐との両存はない。それ故に?人生の後半戦は、積極的に家庭や社会に関わることを理想とする提案、言葉が飛び交うわけである。果たしておじさんはどこまでその理想に従って行動し、提示された更なる生き甲斐なるものを自らの生き甲斐として置き換え獲得することができるのであろうか。

おじさんの更なる試練と可能性
1つの傾向、データとして“生き甲斐”を持つ男性は、持たない男性よりも心血管死亡リスクが低く、同時に社会的支援を受けていない男性は、死亡リスクが高いなどの報告がされているようだ。やはり総論としては精神的な要因が死亡リスクなどに与える影響として、女性よりも男性が大きいようでありその想像は難くない。やはりシンプルに考えても、生き甲斐の原理原則たる「生きることの喜び」が精神的に齎す効果は測り知れないのである。

ここでウィキペディアから(故)神谷美恵子先生(日本の精神科医)の一説を引用させていただきたい。「生き甲斐」という言葉は日本語独自の表現であり、人間の感じる生きがいというものの複雑なニュアンスをかえってよく表現していると指摘している。また、類語に「はりあい」がある。神谷によれば、生きがいという言葉の使い方には、2通りある。一つ目は、生きがいの源泉、または対象となるものを指すときである。(例:この子は私の生きがいですという場合)二つ目は、生きがいを感じている精神状態(=生きがい感)を意味するときである。

結論:郷にある生き甲斐という風景
当たり前であるが生き甲斐を感じる内容は人によって異なる。また人生のどの時点からでも、再び周辺を見つめ直しながら創り出すことができるはずである。だが生き甲斐というとどうしても華々しい世界をイメージしてしまい、実行や実現に向けての距離を遠きものと決めつけてしまう。
郷らしい、郷の住人らしい生き甲斐の探し方。それはやはり「小さな」「少しの」手応えや達成感の中にその可能性を求めてみたい。それが郷の住人にとっては似つかわしい。「郷らしさ・男らしさ」という視点でいうならば「目標」や「趣味」の領域が言葉として至近距離にある気がする。
例えば、念願の大型バイクの免許をとり、出雲大社にツーリングに行く。気ままな四輪ドライブも良いだろう。かみさんと全国の温泉宿を巡るも良し。北海道一周旅行にまた行ってみたい。因みにこれは老後の話でもない。長きにわたる継続性がなくとも実行性と笑顔が伴うこと。オードリー・ヘップバーンの映画を全部観る、でもいいのである。

“いきがい”という言葉に縛られない
いま、おじさんたちは世間からそのあるべき姿、形、考え方の理想を求められている。いや、それは理想ではなく、要求であったり注意喚起であることの方が多いのが現実である。ルール違反やモラルの欠如は避けるべきだが、ただ理由もなく社会や周辺に迎合することとは違う気がする。

今さら、質実剛健に建設的に前向きに生きられないこともある。大きい思いであろうと小さな願望であろうと、どちらにせよ得る事も得られないこともあることぐらいは分かっているし、自分のケツは自分で拭くことぐらいは心得ている。独法師(ひとりぽっち)でも粛々と。

その生きざまが男の最後のプライドであっても良いのではないだろうか。たとえやせ我慢であっても。世の中の理想、その正しいと主張される現実の裏側にも必ず何らかの場所はあるはずだ。

静かで優しさに満ちた世界。我ら男たちが無理をせず、自らを肯定し歩みつづけられる居場所、生きる場所は存在する。そこは生きている甲斐に満ちた場所であり、武骨でシャイで不器用な男たちにマッチする郷である。