2024.07.04

武士道の追究❹                  <どうしたオジサン その帰結>

武士道の追究❹                  <どうしたオジサン その帰結>

日本人に失われつつあること

今回私自身が抱いた疑問、                                   そしてその答えに繋がる武士道に内在する論拠。

1疑問  現代日本人に非常識な言動が多発する理由。なぜ品性/品格を失っているのか。

2⃣結論  日本における「宗教教育、道徳教育」の不在。 

本著を辿りながら今に活かすべく答えとして引き戻したい。

武士道の継続的価値      ~不変の真理~

武士が発生し、武士道が形づけられ庶民にまで定着したその思想が日本の生活文化や宗教思想の変遷と重なっていた。武士道が日本の倫理観や道徳観を結実させたのである。その経路は古代神話の芽吹きに端を発し、隣国からの東洋的な文化や宗教の影響を受けながら、時代はその刻印として武士の登場を要請した。戦国の世を経て、人心が求め得た安定した世の中は、武士としての倫理・道徳体系の進化はもとより、一般大衆における教育の広がりや武士道を基礎とした生きる上での思想が深く浸透していく側面を生み出した。

時代がつくり出した覇者たる武士の思想が日本らしい教育文化を築く土台の一部になっていたことの意義は大きい。                                                                                    新渡戸氏はこんな表現をしている。「日本が日本たりえたのは侍のお陰なのだ」中略「彼らは社会制度的には民衆から隔たった位置に身を置いていたが、民衆に道徳規範を掲げ、その模範を示すことによって導いたのだ」とあえて「侍」という表現、その存在の影響力と合わせながら、道徳規範が浸透していった様を示している。

日本が神話の世界から史実へと時代の流れが顕在化していく中で、かたや隣国の中華王朝は、既に世界の中心で栄えている国としての権威、その偉大性を誇っていた。蛮夷としての位置づけであった我が国の民の気質は偉大なる隣国との密接な関係性も影響している。                                          大国と対峙する小さな倭の国、当時の大和民族は何を標に生きていたのか。

やはり天照大神を主神とした神、八百万の神は大きな存在であった。日出ずる国として、その神々を崇める基本精神は中華なる偉大な国とも拮抗する神々しさ/気高さを有する国なのである。既にこの時、劣等国と見下されることに対し我慢ならない名誉心があったとされる。その精神は後の世へと伝承されていった。                                         例えば「雲の上の存在」という表現がある。手が届かないほど現実から超越した存在は明確に差別化されてきた。天皇という存在性はその極みであり、その最上階層に位置するのは多くの神々であったのだろう。雲上の最たる存在である神々と天皇は神話の世界の流れをもって同質性を生んだ。かたや貴族、武士を含めた人民との精神的な差別化はまさに神秘的なものでもあり、抗えなくかつ抗うようなことでもない存在であった。それは戦国、下克上の世の中においても同様であり、天皇は討伐され得る存在ではなく、絶えることに繋がるものでもない。今に至っても天皇の存在が脈々と継続している事実は多くのことを証明している。

そもそも高い身分に位置する武士の教えである武士道が庶民の道徳規範として心深くに浸透した理由は何なのか。                                                         それは、憧れにも似た武士への好意的イメージの存在と何よりも日本人として古くから備わっていた気質と武士道の精神が同じ脈流であったことがその主たる理由のようだ。

本来、一般大衆と武士階級とは道徳水準や文化性において厳然たる違いが存在している。興味深い部分は一般大衆との調和、融合の一端として「大和魂」を挙げていることである。

大和魂は、外国と比して日本流であると考えられる精神や知恵・才覚などを指す用語・概念。儒教や仏教などが入ってくる以前からの、日本人の本来的なものの考え方や見方を支えている精神である– Wikipedia)                                                              この大和魂は神道に通じるものであり、武士道と大和魂は同一の源泉、同じ魂であり、武士道が庶民にも受け入れられ易かった理由はそこにある。

第十六章で新渡戸氏は「武士道がおよぼし続ける影響」について論及している。大きな点は、武士道としての時代を超越した絶対性・不変性であろう。西洋文明の影響を受けるものでもない、と日本人の真価として確信している姿が見える。

日本の宗教・道徳は時代の流れの中で連綿と形づけられてきたもので、日本人の生き方の反映として導かれた結果論である。その結果をより強固に形づけた集大成が武士道ではないか。

そして教義として強いられるような宗教の性格とは違い、長年の蓄積として「日本人(精神)のDNAとして組み込まれている魂」である、と新渡戸氏は語っているような気がしてならない。

これまでの武士道の説明の中に時代を超えて当てはまる、人としての愚かなる行いが読み取れた。際立った傾向を集約してみた。                                                                  ●昨今多発するハラスメントの数々は、主に礼節との接点が大きい。権力を有する立場を利用した卑怯な振る舞いは、嘘や傲慢さに満ちている。                                                       ●贈収賄など金銭に絡む不正、不祥事は後を絶たず、そこには誇りや名誉心のかけらもない。時として、己の悪事が暴露されると、平静さを失い開き直るばかり、恥を知れ‼の前に恥に対する考え方を学ぶべきである。 総じて欠けている部分は、                                                                                          ●他人の気持ちを思いやる心、慈愛と謙虚さである。      

もちろん武士道における全ての教義がいまの時代にも効果的な戒めになるとは限らないであろう。                 ■「長く耐え忍ぶこと」が必ずしも美徳に繋がらない。                                            ■労働社会では上席のご機嫌を取り媚びへつらう。そして忖度することは必定でもあるようだ。                               

忠誠という徳を歪曲し活用することが、社会で生き残る為の現代的な手段になってしまったのだろう。この様に今の社会の中で旧来の武士道の教義と相通じるものもあれば交わらない価値観もある。ただ、道徳思想である限り、過去正しかった行いが時代を経て過ちに変化することはないはずである。  

神道の本質とは何だったのであろうか。遡れば戦争でお国の為に命を捧げる兵士の姿、高度成長期の企業戦士の発生など良し悪しは別として、根底に横たわっている精神性に大和民族の魂の存在を感じる。もはや鎌倉や江戸時代の話しでもなく、時代は既に昭和を経て現代にかけての出来事である。

個人的には戦争など政治的な事変が日本の宗教道徳思想を捻じ曲げ遠ざけた主因と観ている。                                       明治維新以降の歴史として、政府による政策転換など多くの政治的な関りがあった。明治政府は王政復古の理想実現の為に神道国教化の方向を示し、神仏分離令を発し、廃仏毀釈へと推し進めていく。                   かつて大衆が武士に向けた憧れと道徳思想に対する真摯な傾倒、可笑記のページを捲った光景は既になくなった。開国から昭和期の戦争に至るまで、その多くの事象が政府/軍部による政策によって社会が翻弄されながら時が流れていった。この辺の歴史的な変遷はここで語り尽くせるものではない。

既に申し上げた通り潜在的な道徳心たるDNAは風土や慣習という余韻、家庭内教育としても残存していたが、やがて経済発展とともにその存在感も半減し、今となっては風前の灯火である。その様な状況下でSNSなどのデジタルシステムが手伝い、不徳の発生と発信はごく当たり前の出来事にように世の中に広がっている。

 仮にその変化が成長や躍進という言葉を伴うことであっても、日本や日本人にとっての真の益に繋がったものではないと個人的には感じている。まさに道徳を知らず、忘れてしまった日本人においては、なおさらのことである。

問題は、従来からの自然な気質の大部分が消失し、僅かに生き残った細胞ですら、その存在を否定されがちな社会へと変化してしまったことである。

唐突ながら、敢えて視点を変えて言及してみたい事がある。それは別稿でも取り上げた男(おじさん)の生きづらさについてである。我々昭和世代のおじさんは、高度成長を急ぐ社会の隙間の中にその匂いとして日本人の思想、精神性を感じながら邁進していた時代を知っている世代である。既に純然たる道徳心からは距離を置くものであったかも知れないが、そこにはある種の男としての「義」なるものが存在していたと子供心ながらに記憶している。それを内在するDNAと呼べるかは別として、確かに代々受け継がれた気質があったのだ。その昭和的気質は、更に時代が進んだ令和の世の中においては、まさに悪玉コレストロールでしかなくなった。

その悪玉菌は宿主であるおじさん達に生きづらさという副作用をもたらしている。今回の疑問に対する答えに結び付くものでもなく不徳の発生の言い訳でもない。ただ昭和の時代には内包された許容性が確かに存在し、併存した害悪ですら意に介さない勢いに満ちていたこと。その環境下で延び延びと生きていられた時代の生き証人たちは、今の時代での適応性に欠けていることは事実であろう。ただ許容性とは聞こえの良い表現であって、言い換えれば単なるルーズ感や怠惰、マナーの欠如の何ものでもなかった。ことの善悪を見抜く常識力も道徳心に基づくものであるならば、昭和の時代は許されていた時代では無く、既に道徳心の欠如に満ちていた時代なのである。                                                                私が小学生の頃、今のJRが国鉄だった時代、ホーム前の線路脇は投げ捨てられた煙草の吸殻で覆われていた。そんな表面的な礼とも言えない礼節ですら欠如していた時代の残存者がいまこの時を生きづらいと表現すること自体が驕りなのかも知れない。この時代を含め、どちらにせよ道徳教育から遠ざかって久しいのである。

本来持ち合わせていた有能な遺伝子。もはやこの遺伝子は人の心によって培養しなければ消え失せてしまうものかも知れない。あえて期待と日本人としての小さな自負を見出す為に新渡戸氏の言葉を復唱したい。                                                                 「維新の志士たちは、武士道直伝の道徳観念、日本人の軸として大和魂を持ち合わせていた」。                                                  「日本の人々がどこでも礼儀正しいのは武士道の遺産」。                                                             

煙草の吸殻が無くなったことは事実である。恥を忘れてはいない。まだまだ大和魂は絶えていない、小さな細胞の1つは未だ存在し続けていると信じたい。

武士の精神、大和魂という道徳観念。神聖という言葉を借りるならば、日本における宗教や道徳は人たるものへの神聖なる教えとして継続的に怠ることなく意識的に伝え続けなければいけないのである。時代に翻弄され消え失せないように。

日本らしい道徳教育の伝承として、堅苦しくなく、年齢を問わず、そして国境を問わず社会での学びとして組み込んで欲しいと願う限りである。

参考:日本の思想  新訳「武士道」 (角川ソフィア文庫)                             新渡戸稲造 (著), 大久保喬樹 (翻訳)

  :大和魂 – Wikipedia