2024.06.27

武士道の追究❸                 「武士」とは?その起源からなぞる」

武士道の追究❸                 「武士」とは?その起源からなぞる」

「武士道」を追究するにあたって

そもそも論、「武士」とは?と自問してみたのだが。これまでは、ただ漠然と武士=強健な男、男らしさとしての象徴的な存在価値を有する「サムライ(侍)」、孤高で気高く、時に粗野で野蛮な戦う男、独特の流儀を兼ね備えた男の中の男。更に「武士道」という言葉に潜む奥義に至っては、精神論のイメージが強いだけで多くが曖昧であった。日本の歴史を動かし創ってきた者たちのことでありながら、実のところ甘い認識でしかなかった。

「武士」の発生、そして「武士道」についての考え方の整理

いわゆる武士の時代と称される時代区分は、おおかた鎌倉時代から1867年の徳川慶喜による大政奉還までの約680年間にわたる武家による政権の時代を指している。武士の発生であるが厳密に元を正すならば、奈良時代中期、743年頃まで遡る必要がある。「墾田永年私財法」が発布された頃である。この法は、諸条件を満たし国司の承認を得られれば、自らで開墾した土地を永久に私有できるとしたもの。                      地方豪族や有力農民による農地拡大であり「荘園」の始まりである。

時を経て平安時代中期頃、この荘園を所有していた豪族や農民達は、一定の地域とその住民を支配する領主にまで発展した。

やがて、中央の権力者の権威を基盤にしながら、様々な権利を得ることにより領地の支配を推し進めた。この様に土地を巡る権力の錯綜は争いの発生を招くことになる。その混乱の答えは、必然的に豪族や農民の武装化へと繋がった、ということである。これが、武士の起源だといわれている。

この様に地方豪族と有力農民の権力や支配への趨勢が平安~鎌倉期において、貴族支配の衰退など幾多の条件が重なり合いながら、武士たる者の存在の必然性と役割をより細かくかつ強固に形付けていった。

「武士と侍」

今では武士=侍という認識が強いかも知れないが、厳密にいうならば侍は武士階級の中の上位の一部の武士を指す言葉である。平安期、都での「武士」は支配層である貴族の屋敷や要人警護をその役割とし、その身分は高いものではなかった。                                            侍という表現は、平安貴族文化が華やかな頃発生したといわれている。侍(さむらい)」は位階六位下程度の下級貴族(官人)の身分呼称であり、その語源は「高貴な人(朝廷や有力貴族など)に仕えて傍に控える」「伺候する/従う」を意味する「さぶらう」に由来している。

侍と武士にまつわる言葉や考え方について幾つか触れておきたい。時代の変遷と共にその定義や表現も変化してきた。時代劇で耳にした言葉もあるかも知れないが身分制の社会構造をイメージし易くもなる。

■鎌倉時代~                                                *将軍の奉仕をする武士は「侍」であり「御家人」。                                           *その侍に仕える武士が「郎党や郎従」。

■鎌倉~室町時代~戦国時代                                                                              *侍は将軍に直接仕えた「家臣」=「直臣」                                                        *室町幕府のもとでは、有力な守護大名に仕えていた武士(侍)でも、足利将軍家の「陪臣」(家臣に仕える家臣のこと)は、「侍」ではなかった。                                                                                           *特定の主君に仕えていなくても戦で大きな武功を挙げることで、上位階級である「侍」と認められていた。

■江戸時代                                                             *江戸時代には、武士階級のうち「旗本」以上の者が「侍」と呼ばれた。旗本とは、所領10,000石未満であり徳川将軍と謁見する資格のある幕臣(将軍/幕府に直属する家臣)のこと。その後、「士農工商」と称される身分制度のもとでは、侍という言葉は武士全体を指すようになったのである。

時代の推移と武士 

武士という存在が形づけられていく流れの一端。地位向上や存在価値の獲得につながった出来事が続いていく。                                                          例えば平安中期に起こった平将門の乱である。これは武士の台頭を決定づける事件でもあった。朝廷との確執は戦いを生み、反抗した将門も武士であり、朝廷の命を受け鎮圧したのも武士であった。                また、地方の武士団も貴族やその血縁者と主従関係を結び、その筆頭格を「武家の棟梁」として一目を置く存在となった。

そして時代を動かす余りにも有名な武家の棟梁、歴史的人物の登場である。それは西国を中心として朝廷との地盤を固めていた「桓武平氏」と東国武士との間で主従関係を強め勢力拡大をした「清和源氏」の一族。                                                        その著名なる人物、言うまでもなく前者が桓武平氏の棟梁であった平清盛である。武士として初めて太政大臣という最高の官職を授かった。武士が貴族に代わって実権を持つようになったのだ。平安時代後期のことである。                                                                  因みに前述した平将門も、桓武天皇のひ孫にあたり桓武平氏のひとりであった。

まるで貴族のような栄華を極めた清盛も没し、その後平家一族も滅ぶことになる。そしてその立役者たるもう一人、後者が清和源氏の源頼朝である。奥州を平定した頼朝は1192年に征夷大将軍に任命され鎌倉幕府が開かれた。本格的な武士の時代の始まりであり、最初の純然たる武家政権といえる。

その後、約680年近くに亘って続いていく、いわゆる武士の時代。以後、それぞれの武士の時代の要請は支配や統治を揺るぎ無いものとする為に、棟梁・征夷大将軍から関白や大名など武士自らの権威付けの中でその身分が形づけられていった。                                                 この慣習は、室町幕府を経て江戸幕府まで続くわけだが、天下太平の世になるにつれて武芸に秀でることでの存在価値だけではなく、領主としての政治的な役割、管理能力も重要になっていった。

「武士の存在性と武士道」

この様に「武士」の発生にはそれなりの理由と経緯があり、人間的な欲望と時代の様が絡み合う形で武士自体の存在価値も変化していった。                                              同時にその側面である「武士道」としての考え方にはどの様な変遷があったのであろうか。

本格的な武士の時代となった鎌倉時代であるが、「武士道」という言葉自体の表現は見られない。因みに日本で「武士」という言葉自体が現れたのは奈良時代の『続日本紀』である。意味合いとしては武力にかかわる役人としての武人が武士であった。また、同時代の『萬葉集』の中で武士は「もののふ/もののべ」と称され、武勇をもって主君に仕え戦う武人を指す言葉として登場している。

この様に表現は違っても、古代から後の武士につながる「戦う者たち」が当然のように存在していた。平安時代に入ってからも「防人や衛士」、そして「健児、検非違使」など武士への進化は重ねられていった。そして辿り着いたのが「武芸を職能とする」という明確な役割としての武士、その現れなのである。                                                         武士道に話を戻そう。                                                    言葉としての存在はないものの武家としての政権の樹立や地位の確立と共に具現化されていった生活規範があった。                                                           「弓馬の道」と呼ばれる規範である。実践的武士道徳として、後の武士道の起源に通じるものである。この道徳規範は、主従の信義・礼節・武勇・廉恥・質実を守り尊ぶべきことを美徳としていた。

この世界観は、室町・戦国時代にかけての武士を中心とした各種様式、武芸や芸能(能楽や茶道)の繁栄、その教養の礎としての影響を与え結実していった。この文化的な躍進の背景は、武士特有の美意識や道徳観の醸成と深いつながりを感じさせる。

「武士道」という表現、言葉の話しであるが日本で書物として最初に記されたのは、江戸時代初期の口述記「甲陽軍鑑」である。甲斐の戦国大名武田信玄・勝頼の時代。                                武田家の合戦における戦略や戦術、更に軍法や刑法などを記述した軍学書である。この軍記には「武士道」という言葉が数多く登場している。だがここで武士道として語られる意味合いは、戦における「武勇や武功」「勇猛果敢さ」をその真髄としており、道徳体系の要素は希薄であった。

甲陽軍鑑は武田家重臣の多くが戦死した長篠の戦いなど武田家の勢力が衰えていく中で諫言の意を含めて書き繋がれたものが元になっている。                                                   天正10年(1582年)織田軍との天目山の戦いに敗れ滅亡した武田家だが、その後も執筆は引き継がれていった。原本は存在していないが、小幡景憲写本本が最古写本として残されており、近世に書物として発刊するにあたって「甲陽軍鑑」と称された。

さて、弓馬の道の中で美徳とされた意識として「主君に対する倫理的な忠誠」がある。しかし実際には鎌倉から室町時代にかけての武士の意識としては決して高かったわけではなかった。中世期の主従関係は主君と郎党間の単なる契約関係であった。特に戦国時代はより良い条件を求め、他の主君への鞍替えが散見されている。

群雄割拠の時代であり、拮抗する力を持つ武士が対立し、明日をも知れぬ身の中で勝ち抜いていく。そこには精神的な理想が重んじられる様な概念が入り込む隙間は存在していなかった、それが現実の姿であろう。

 武士道の変容と拡充 ~平和状態の徳川幕府の社会~

国内のいくさ、諸外国との戦争もない平和状態が200年以上も続いたのである。世界史的にみても稀なことであった。戦いの必要性が薄れたことによって、武士道は勇猛果敢など武功に繋がる価値基準から精神思想的な性格に順応する方向へと進化していった。

この時代の武士は士農工商という身分制度の上位の支配階級に位置付けられており、それはもはや戦士として戦うことがその役割の全てではないことを意味した。幕府/藩に属する武士たちは、公共的な組織の役人として統治する役割を担う立場にあった。実務的にも管理者としての心構えやその立ち振る舞いに気を配る必要性に迫られていた。

この頃から「内面の強さや周囲からの信頼を得ることが武士の精神である」といった考え方が顕著に現れ始める。                                                  世の中が落ち着き始めた時代の中で刊行された書物がある。                                                  太平の世に倣った先々の変化をどの様に予見させているのであろうか。その一冊が『諸家評定』である。                                                                                                                                           兵学者/小笠原昨雲が1621年に著した軍学書。同書で用いられている「武士道」という言葉、考え方。それは褒美の多さや勢力の強大さになびくことなく、自らの信念を貫き通す内面的な思想を「意地」と称し、その強固さを武士道の本質としている。武功をあげる要素の中で手柄という価値基準よりも精神性がこれまで以上に大きく関わり出している。                                                           この感覚は、1642年に出版された教訓書『可笑記』の武士道論で更に顕著になる。作者は山形藩最上家の元家臣・斎藤親盛とされている。この書にも「武士道」という言葉が頻出している。                                          特に武士自身による武士道の定義として、例えば「嘘をつかず、欲深くなく、驕らない」、「礼節をわきまえ、慈悲深く、義理を重んじること」など現代社会にも通じる武士道としての思想が顕著に表れている。

同時にこれらの精神性は、武士階級にとどまるものでなく、広く庶民の心にも浸透していき、民衆の道徳観としての性格を有していった。『可笑記』は仮名文字で書かれているので、寺子屋などで一通りの読み書きの学習を経た者であれば、誰でも読むことができた。また、子供や女性にも読まれていたようである。                                                               この様に『可笑記』が説いていた倫理観念は一般庶民の生き方にも大きな影響を与え、特に経済活動においては、信用を何よりも重んじるという気風を育むこととなった。

また17世紀の終わり頃、『古今武士道絵づくし』という題名の本が出版されていた。浮世絵師の元祖である菱川師宣が著した。武士の英雄物語を絵で描いたもので、子供向けの絵本のようだ。題名に武士道という言葉が用いられおり、庶民の間で武士たる者が今でいうヒーロー物語のような世界観で描かれていたのだろう。まさに緊迫感のある武人から子供たちの英雄への変化だとしたら平和な日常の象徴的な断片がそこにある。

時代区分の視点において、武士の時代の終わりとは大政奉還によって江戸幕府が滅亡した時のことを指す。                                                                                                  では、元号や体制が変わることと人民に根差した観念的な思想のあり方はその後どの様な変化の道を辿ったのであろうか。武士という存在性の変化。それは端的に表現すると、武力という肉体的な表現、武功たる功績を顕示する世界から、平和国家存続の為の幕藩体制の維持・管理能力を必要とする体制への移行であった。そして何よりも武士という存在が消える中で、開国という歴史的変化が政府役人ほか次なる体制秩序の管理維持の為の人材を時代が求めたことである。

武士道が日本の社会と人々に及ぼした影響力は、極めて広範、多岐にわたるものであり、その影響は後世へと続いた。この時代の人心の在り方が現在の社会の道徳思想的な考え方との親和性、因果関係へと繋がている。                                                           引き続き本著「武士道」の中で次項その答えに迫ってみたい。

参考:日本の思想  新訳「武士道」 (角川ソフィア文庫)                                                                                                                新渡戸稲造 (著), 大久保喬樹 (翻訳)