「チロルの挽歌」からの推論
原作者 山田太一氏の意図を探る
実はこのドラマを見逃していた。山田太一氏が亡くなり、改めて彼の脚本、その作品を探している中で目に留まった1つだった。主人公である高倉健の俳優としての個性は、男らしさ/男の世界観を探っていくには十分過ぎる程のこととして先立つ心証があった。(あらすじ・出演者については‐Ⅰをご参照ください)
まずこのドラマに登場する男たち、その象徴的な男らしさの様相について言及しないわけにはいかない。
特に主人公である立石(高倉健)の性格・性質であるが、言葉として表すならば「無骨」「不器用」「無口/口下手」「一本気」「暴力的」などであり、指し示すものとして疑うものは何もない。さらに特に男っぽい性格の持ち主としては牧場を経営する半田の存在がある。彼はまさに家父長制という家制度からなる男の尊厳に絶対価値を置いているような人物であるが「気骨さや筋道」など人間性を表すような男らしさも有している。
それぞれに違いはあるが昭和の時代に存在した象徴的な男性像につながる要素である。
そして高倉健のイメージとしては意外性が伴う「女々しさ」「意固地」「やせ我慢」など弱さに通じる側面が散見されることは注視すべきことであった。
どうだろうか?山田太一氏は立石(高倉健)というキャラクター、さらにドラマに配されたそれぞれの男たちを通じて、男らしさのあり方をこんなに多面性に富んだものだと表現したかったのであろうか?
TVドラマでも映画でも男っぽさの表現のあり方は様々である。放映された当時、立石のその男としての振る舞いは社会にどう映っていたのであろうか?同時にこのドラマのキャスティングとして高倉健を起用してまで、例えば男らしさを紐解くこと、その意義がどこに存在したのであろうか?高倉健という存在性を意識すればする程、疑問がわくばかりであった。
正直な感想を述べてみたい。
前/後編を通して見終わった後、自分は得体の知れない心の揺らぎ、グレーな感覚に包まれた。総じてそれは決して好意的な評価ではなく、敬愛する山田太一氏に対する一瞬ではあるのだが懐疑的な感覚を抱いたのも事実である。何に対しての違和感なのか曖昧なまま。
そしてその違和感の理由を紐解くことに繋がる2つの意識に辿り着いた。
1つ目は、この作品を見るに際して、その前段階から自分本位な期待があったことだ。この作品なら高倉健なら、男たちの郷にふさわしいハイレベルな男らしさのあり方をバリエーション豊富に提示してくれるであろうと。
2つ目は、昭和という時代背景と高倉健という俳優イメージがそのまま今の自分/郷における男らしさへの支持、肯定化を促してくれるであろうと、そう思い描いていたことである。
ではこの違和感の根拠とは何か?
例えばドラマのあちらこちらでそんな分かり易い男らしさの表現が交錯し量産され過ぎていたからかも知れない。(それにも理由があったのだが・・)出演している男たちのそれぞれの男らしさを探究し、その正当性みたいなものに結び付けようとしても面白さには欠けそうだ。
この時代に普通に存在していた男たちの姿。同時に過渡期にあった社会的価値観の変化や男らしさの喪失と失墜の過程を今となっては冷静に合わせ見ることができる。ドラマのシーン1つ1つを掻い摘んでその男らしさの所在を論っても、薄っぺらい評論に留まるばかりであり、そんな違和感かも知れない。
そうなのだが・・。
さほど遠回りすることなく、自分の違和感に対する裏返しのような答えはすぐ目の前にあったことに気づいた。大きな存在感を誇示していた。ドラマ全般を通して、男らしさのあり方を様々なセリフや情景、表情を交えながらストーリー展開されていたのだが、それは男の世界を表現したかったわけではない、と確信に近い思いでそう決め付けた。
その滑稽とも捉えられる男たちの男らしい言動を過剰な程に挿入することによって浮き立たせることに繋がった対象者、それは「女性」であり、まさしく女性の生き方を訴求したドラマであったと勝手なる推論を導いてみたのである。
女性とは言うまでもなく志津江(大原麗子)であり、娘の亜紀である。ドラマも終盤に差し掛かり話し合いの場面。やせ我慢をし、格好をつける立石と菊川は、もはや志津江の掌の上で転がされているようなものだ。躊躇なく歯切れよく自分の思い/考え方を自己主張する女性、志津江。「だらしない人かも?」と当初は母親である志津江に嫌悪感を抱いていた亜紀も「ううん良く分かる」と母親の言葉に迷いなく同調する。
恐らくだが、山田太一氏のこの作品への思い・意図は「女性たちが強くなっていくことへの示唆」「社会進出/自立への大きな予感」ではないだろうか。志津江だけを捉えてみても立石の妻、主婦として家庭におさまっていた過去から、お店を繁盛させる現状描写へとつなげることにより、働く女性像を想起している側面を感じる。
潜在的に強かった、強い女性がその強さを社会の中で顕在化させ自己主張できる時代の到来。それを男たち、しかも高倉健という最強の男性性をイメージさせる俳優を片側に配置し、大きなギャップと共に提言した。
話は戻るが市長が女性秘書を紹介するシーンで「かわいいでしょ!はははっ」と軽く言い放つシーンがある。男性主体の社会意識を表現するには、十分過ぎる程のインパクトである。時代の変化への入り口として強調させるための1シーンの挿入、これも後々の伏線の1つになっていたというのは考え過ぎであろうか。

話し合いの宴が終わりかけた頃、道行く炭鉱夫の行進という幻想シーンが描かれている。炭鉱の町として男たちが活躍し繁栄していた頃の描写。そして「私に何ができるっていうんだ」と叫ぶ市長。この声は町の復興に対する藻搔きの叫びではなく、男性としての存在の無力さを今は必要とされなくなった炭鉱夫たちの姿と重ね合わせた状況描写で表現しているのではないか。『時代が変わった』と立ち尽くすこのドラマの男たちは、昭和に引きずられながら不器用に藻搔き、男らしさの存在意義と価値に蓋をして、刹那に包まれながら何かを諦めていく。挽歌とは死者をいたむ詩歌である。時代の変化に襲われた男たちの死は重たさに満ちている。
そしてラストシーンへと続く。
チロリアンハットをかぶった笑顔の立石、この高倉健への違和感こそが山田太一氏の脚本の妙技だと勝手に解釈したい。そして上掲の通り、氏の脚本への疑念に対し、勝手に猛省している自分である。
だが・・結末として。
「志津江は立石と暮らし、週末は菊川の店にパートに出ている」と娘の亜紀の極めて自然なナレーションが流れる。
ある意味志津江の筋書き通りに生きる男たち、2人。
個人的にあり得ないかな・・。年をとって性格が丸くなるようなことでもなく。小さい男だと言われても譲れない部分は永遠だ。
この女性的調和?に寄った結末に世の中の男たちがどう感じるかは別である。だが、山田太一という脚本家は、ストレートにそれを貫き終えた。
やはり秀逸な作品であった。
