いま、あらためて「男」を問う!「男たち」を誘う場所を創る
様々な情報が瞬時に行き交う、そんな世の中。便利だけど逆に厄介な事も多い。
氾濫する情報の中で生活している。それは、物事に対する己の価値判断を完全に弄んでいる。
車窓から眺める景色のように、様々な情報たちは一瞬のできごととして現れては去っていく。
その情景1つ1つに対する理解など、もはや必要ない。
長寿社会に身を置きながら、年を食ってから感じる面倒なことが山ほどある。
細かな理屈や理想論は抜きにして、「小さくとも単純な幸せを喜びとして感じられる自分」でいたい、そんな風にある意味では謙虚に思うことが多くなった。と、言いつつも「小さくて単純な幸せとは?」と直ぐに懐疑的になってしまう。謙虚というより・・身も心も小さくなっていく自分を認識してしまう。世間や友人との比較論でもなく、それを感じる自分でいられるか?ただそれが意外と難しい。
一方で、人生を深く後悔しているわけではないのだが、いつの間にか黒い霧に満ちた暗室、そんな密閉された空間に自分が支配されつつあるような気もする。
小さくて単純な幸せ。それはたまたま発生した日常の一コマでしか過ぎない。どちらかというと足元さえ見えづらい中で必死にバランスを取ろうとして躍起になっているのが現実なのかも知れない。
本来、明日の命でさせ危うい時代や環境下においては、❛小さな幸せ’を求める価値視点は理解に難くない。
かたや戦争もなく経済発展し、平和な?今の日本に身を置きながら、人生の最期に❛小さな幸せ’を求めるおじさんの心理とは何だろうか?
本来、幸せを求めること自体は当然でありながらも、逆に幸せに懐疑的になる心理が意味するところは?
老害とか痛いおじさんなど大の大人の男を揶揄する言葉が溢れる。巷に蔓延るそんな情報群も一因かも知れない。
解き明かしづらい閉塞感に付き纏われているおじさんは多いのではないだろうか。
そもそも男ってなんだろう?
その答えに窮する自分がいる。
雑多な情報に感化されることなく、❛男やおじさん❜そのものを見つめ直してみたい。いっそのこと今どきの世の中の常識とは真逆の男の像を探ってみようか。折角だから、最期に「男の達人」を目指してみるのも妙案とはいえないだろうか。
郷は男たちの聖域。「男」の本質を再検証しながら心の郷として耕していきたい。