男たちよ、男を面白がれ

第二篇 生きづらいって、どういうこと?!

生きやすさの弊害

世の中、ずいぶん生きやすくなったらしい。
働きすぎない。無理をしない。我慢しない。頑張るのもほどほどに。自分の時間を大切に。結構なことである。
そんな考え方がスタンダードになり、自らを主張することに躊躇は必要ないのだ。
方や頻発するサイバー攻撃、自然災害など、もはや人間の手には負えないものが以前よりもすぐ隣に存在しながら生活をしている。

これまで人間は「手軽さ」や「利便性」「快適さ」を追求し続けてきた。確かに多くのことが進化し変化してきた。それは喜ばしいことと言わないといけない。
ただ、そんな整われた国に暮らしながら、微妙に居心地の悪さを感じる時がある。
自分たちは、国がまだ貧しかった時代を知っている。途上の時間を経て、高度成長、そしてバブルの崩壊など一連の変化を目の当たりにしながら生きてきた。

そんな我々だから、いまのこの時代の豊かさやある種の柔軟さという在り方に対して、どうしても斜に構えた見方をしてしまう。
これほど恵まれた時代でありながらも、相変わらず何かにつけて「生きづらさ」という言葉が登場する。男の生きづらさ、女の生きづらさ、若者の生きづらさ、おじさんの生きづらさ。

結局、人間は、矛盾を抱えながら歩むことが本能として備わっている生きものではなかろうか、と思うほどである。

そもそも、生きるって、本来、容易いことではないはずだが。

他人と折り合いをつけ、理不尽に腹を立て、思いどおりにならない現実を飲み込み、それでも翌朝にはきちんと起きて、またビジネスシューズに足を滑り込ませる。それが人生というものではなかったか。
もちろん、苦労を美化するつもりはない。理不尽な差別も、身体を壊すような働き方も、なくせるものならなくした方がいい。だが、生きやすい社会と、のびのびと生きられる社会が、同じものとは思えない。どうも、そのあたりが気になって仕方がない。

整いすぎた社会の疲労

我々おじさんたちが若かりし頃は、いろいろな不自由が存在した。多くの在り様が現実の1つ1つであったが、そのいまを消化しながら目まぐるしく多くの変化が訪れた。 目の前に存在していた不自由を認識する間もなく。そんな曖昧さが手伝って、いまとなってはノスタルジックな景色として映っている。
不自由さとの接点は微妙だが、良くも悪くも「人それぞれの役割」という社会構造があった。男は働いて家族を養う、父親は一家を支える、弱音を吐かず、多少の無理は引き受ける。
その役割に押しつぶされた人もいただろうし、そもそも役割を選べないことに苦しんだ人もいたはずである。だが一方で、男たちにとっては、その役割が、自らの存在価値を支える感覚を育んでいた。何をすべきか。少なくとも、その問いに対する答えの一つは、社会の側に用意されていたのである。

ところが今は違う。自由になった、選択肢が増えた、多様な生き方が認められるようになった。その代わり、自分が何者で何を大切にし、どんな人間でありたいのかを自分で決めることになる。
本来それは望ましい姿のようにも感じる。ただ全ての人間が自らの願いを成就できるわけでもない。自由には競争という現実が伴う。
昔は「何をしたか」が問われた。いまは働き方の見直しや協調性、共感力、家事も育児も、身だしなみなど多くの要素を兼ね備えるべきなのだ。要は「どういう人間か」が問われるのだ。
正直いって、自分は不十分な人間であり、さらに、不器用な人間であるが、いまさら変えられないものも多いのが現実である。向上心や理想としても、例えば、「仕事をきちんとこなすことや誠実さ、柔軟性、優しさ、気が利く人間であること」など、言うまでもなく、どれも大切なことである。

しかし、人間には得手不得手というものがある。無口な男には、無口な男なりの誠実さがある。それを理解してもらうために、まず饒舌にならなければならないとしたら、何とも妙な話である。

社会は多様性を認めるという。「認める」社会とはどのようなことを指すのであろうか。
屁理屈ではないのだが、認めるとは‘存在や価値を承認すること’であることに対して、 容認するは‘好ましいとは思わないが、存在を許すこと’という表現がある。
協調性という言葉でカバーされているかも知れないが、容認というレベル、空気感がまん延しているのではないか?それも自由の賜物として。

重要なのは、容認された側の存在価値そのものが深く理解されているわけではない、ということである。

では、不器用な男の不器用さも、その多様性の中に入っているのだろうか。男は黙って、などと言えば古臭いと笑われる。かといって、何でも器用に話せる男ばかりではない。
現代のおじさんは、変化するトレンドに乗り遅れると生きづらさへとまっしぐらに転がり落ちていくしかないようだ。

男の存在証明は、いつ終わるのか

ここで一つ、考えてみたいことがある。男の生きづらさとは、単に仕事が大変だとか、家庭で肩身が狭いとか、そういう話だけなのだろうか。もっと根の深いところに、存在証明の終わらない競争があるように思う。
かつて男たちが担ってきた役割には、社会的な承認が伴っていた。「家族を養う/責任を負う/危険を引き受ける/誰かのために働く」それが理想的な社会だったかどうかは別として、役割を果たすことが、そのまま自分の存在を肯定することとして成立していた。

今、その役割は変化し、分散し、時には不要とされる。それは社会の進歩でもある。 ただ、この時代の役割の変化は、自らの存在価値の承認のされ方を模索することに繋がっている。
そして、特におじさんたちの内側にある「まだまだ自分は誰かに必要とされているはず」という欲求の置き場所はすでに存在していないのだ。

何をもって自分の存在の証しを認識できるのか、分かりにくくなった。男の役割とは、常に時代がつくり出すものなのだろうか。そして、時代がその役割を書き換えるたびに、男は自分の存在価値探しの旅にでないといけないのか。身体は鈍化し落ち着きたいのに、心は、忙しない毎日だ。

ここで私が気になるのは、男は役割の変化によって、その権威が失われたわけではない、ということ。男は単なるお手伝いさんではない。次のお仕事は?と、単純に赴けばいいわけではない。危惧すべきことは、もっと根源的な視点、男という生き物が大切にしてきたものまで、時代の都合で蔑ろにされてしまうことである。
無論、男だから偉いという話ではない。しかし、男だからこそ引き受けようとしてきた責任や誰にも見せずに抱えてきた負荷まで、古い価値観として片づけてしまっていいものか。
そこには、もう少し敬意があってもいいのではないか。

生物としての本質から探る「尊重」とは何か?

狩るメス、守るオス/尊重を必要としない世界の役割分担

ちょっと視点を変えてみたい。 百獣の王 ライオン。風になびく鬣(たてがみ)をまとったオスライオンの勇壮な姿は、王者の風格を漂わせる。あくまでも人間側の偏見なのだが、ライオン、特にオスライオンのイメージは、その強さを背景にした力による群れの統括責任者である。
だが、実際のところは多少違うようだ。ライオンの群れにおける役割分担であるが、狩り・子育て・群れの日常運営の主力はメスなのだ。オスの最大の役割は外敵(乗っ取りを狙う若オス)からの防衛で、「日常業務はさほどしないが究極の安全保障を担当する」存在だという。権威はどちらか一方にあるのではなく、役割が違うだけ。オスは「統治者」より「守護者」であり、メスは「経営者」に近いのだ。自然界では「強い方がリーダー」というイメージがあるがライオンはそうではない。

この「強い方」、という表現も曖昧なのだが、その種の存続に最も重要な役割を担う個体が中心になる傾向(例:ゾウは成熟したメスが群れを率いる)がある。

動物と人間の感性・感度

動物社会の秩序は、尊重や感謝ではなく、種の存続に最適化された役割分担で成り立っている。「優位性」より「必要性」。

人間は文化・言語・自己認識を持つため、本能を越えた領域で役割を選べる(女性指導者、男性保育士など)。
人間における尊重とは、相手の担う責任や存在価値を認めること。人間の特殊性は「役割そのもの」ではなく「役割に意味を与える能力」にあるという。

さらに動物に感情や意識はあるか?そんな問いかけを自らにしてみた。
例えば、鳥とかボノボ(人間に最も近い霊長類の一種。さらに共感性や協調性に富むことで知られる)を探ってみたい。
現代の動物行動学では「動物に感情はない」とは言い切れないそうである(ゾウの弔い行動、カラスの記憶、鳥の長期的つがいなど)。
ボノボは、慰め・仲直り・食物の分配・弱者支援など「尊重に見える行動」を示すが、人格的価値の認識や倫理意識までの証明はできない。

多少強引であるが、簡単にまとめると、ライオンは「役割を生き」、ボノボは「役割と感情を生き」、人間はさらに「意味を生きる」。

基本的なことだが、人類も動物の系譜の上にある存在である。生命の大きな連なりによって成立しているのだが、同質ではない=この異質性が人間自ら、生きることの矛盾へと導いている気がしてならない。

尊重とは、何だろう

人間は、生きるためだけではなく、自分の役割について、なぜ働くのか・なぜ家族を支えるのか・なぜ誰かのために自分の時間を使うのか、などその行為にも思考を巡らせる面倒くさい生き物である。
そして、男という生き物は、とりわけ「必要とされること」に、妙なこだわりを持ってきたように思う。誰かに頼られれば、つい引き受ける。難しいと言われれば、かえってやってみたくなる。無理をするなと言われると、なぜか少し無理をしたくなる。

もちろん、そんな男ばかりではない。あくまで傾向の話である。だが、そういう性分の男が、少なからずいることも確かだろう。
非合理的なことも多分にある。その思考回路がオスの本能といかに結びついているのか、否か?生きるという歴史を積み重ねてきた進化の結果、故の性質なのか。

いまでも男たちは、あえて難儀な方へ向かいたくなる性質があることは否定できない。そして、そんな性質自体が時には男を「生き生きさせている」側面も大いにある気がする。

おじさんたちが求めるもの

あえて乱暴な仮説を立てるなら、「平和な社会では男性は尊重を実感しにくい」という見方もできる。偏見に満ちているという印象、その反感は覚悟の上で。当然、その理由は一概にいえるものではないと理解している。
答えを急ぐわけではないが、いまの社会において欠如しているものを挙げるとしたら「他者の見えない負荷を想像する力」と「相互性」であることは言えそうである。

「自己本位な人が増えた/自由と平等による弊害」など単純な一本線の考察ではなく、誰もが自己実現を求める時代になり、お互いの役割が見えにくくなったことが他者尊重の欠如の一因ではないか。そんな小さな結論づけに無理はないと思う。
役割が曖昧になったからこそ、尊重にはその為の意識的な行為が必要になった。

役割が見えている動物社会と対比して、人類は役割が重層化して見えにくくなった。
その反動ともいえるぐらいに、おじさんたちは自らの存在理由を求め続けているようだ

現代男性の生きづらさの正体

最後に少しだけ逆説的な考察もしてみたい。
ライオンという動物は、群れを守る・繁殖する・生き残ることを明確な役割と本能の中で完結させていた。そして人間は、その役割に流動性が伴い、さらに意味を持たせる生きものであった。
ふと思う。
人間が動物の一種としての摂理から逸脱して、生きるための意味を持たせるようになったことにより、逆に動物本来の生存と繁殖/継続という根幹から離れていくばかりの現実がある、と・・。将来を見据えるとき、このことをどう捉えればいいのだろうか。

総括:意味を求めてしまう人間の宿命

家族のために身を削る、理不尽に耐える、動物から見れば非合理である。
しかし人間は、「意味がある苦しみなら耐えられる」という極めて特殊な生き物なのだ。
人間は生きる理由なしには生きられない。
同様に男は何をどの様に必要とされているのか、という考え方にどうもこだわってしまう生きものらしい。

もしかすると男の生きづらさとは、力を失ったことではなく、「自分が何のために存在しているのか」を説明してくれる物語を失ったことによるものなのかもしれない。

現代の自由という環境のもとでは、その代償として『生きる意味』を自力で見つけなければならなくなった。
特に我々おじさんの年代層においては、生きる意味のあり方を問う前に、社会の凸凹道にひざと心を痛めている現実がある。

おじさんにとっての生きる意味って何だろうか?そんな大げさな発想を引っ張り出さなくてもいいのだが、この年齢の苦楽のあり方は本当に人それぞれである。

結局のところ、私は、男という生き物が持つ、少々厄介な性分をもう少し面白がるぐらいがちょうどいいのではないかと思っている。

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