見栄は男の嗜みなり
<見栄との共存>
男は見栄を張るものだ!と日頃から心がけているわけではない。少なくとも自分はそうである。見栄自体は、どちらかというと本能に近い性質のような気もする。
恐らく同時に、大方の人は、見栄とは?という問いかけがあった時、その答えを並べることはさほど難しくはないはずである。
そんな見栄はある意味、幼少の頃から身近な思考パターンの一つとして内在していたと思う。良し悪しが混在しながら。
そして、見栄との関係は、自分が生きるうえでの良き相棒なのか、変身ベルトか、はたまた松葉杖みたいなものなのか?それぞれ多様だと思う。
大人になってみて1つ言えることは、見栄を張れるということ自体、人が社会の中で生きる活力や成長に繋がっていることだと思う。
今さら見栄とは?と論ずるつもりはない。ただ自分にとっての見栄とは?
かつて見栄は自らを駆動させるためのバッテリーだった。もしかしたらいろいろな場面で色々な見栄が出現していたのだろうが、挙げ出したらキリがない。 そして、出発点としての見栄の登場から、成熟へと誘う効果も感じる。
それは「格好つけ」のような領域において、特に若い頃は多く発出した。
例えば、イタリア製のビジネスシューズを買う、ということから、まずは踵の減り具合が気になり、キズや汚れに対する気の回し方など多岐に連なっていく。そして木型や染色、革の質への拘りなど多くの造詣を深めることに繋がっていくのだ。
同じく若い時分の見栄はバリエーションも変化に富んでいたし、仮に‘質‘というものが存在するとしても、見栄を張ることに忙しく、自分を磨くことを疎かにしていることも多々あった。 成長などと偉そうに言える程のことではないわけであり、それほど見栄の出入りが激しかったともいえる。
<見栄は喜びの源泉>
見栄っ張り、などという表現の中では、決していい印象をもたらさない見栄。ただ、見栄は競争や承認、成長、演出など様々な「喜び」の要素に包まれている。人生を形成するうえでの発電機としての役割、効果は大きい。
見栄が人を育てる
昔は無理をしてでも良い鞄を買ったり、車を買った。同時に、にわか仕込みでも重要な会議の前には多くの資料を読み漁った。確かにファッションも車も好きであった。ここで存在する見栄は、趣味的な感覚が下支えしていたのだが、確かにブランド志向もあった。
この物理的な満足=見栄が自らのポテンシャルとしてどのように結実したかは、正直、曖昧な部分が多い。
ただ、偽りで自らを飾ることはなかった。自由になるお金なんてなかった。目の前にある極めて分かり易い事実と現実を目の当たりにすると、虚飾の世界に入り込むような感覚、ある種の歪んだ余裕など浮かび上がるものではなかったのだ。
それと対峙する形で存在したのが所謂「くだらない見栄」というやつである。見栄にも種類のほかに性質があった。ただ、若い頃は特にこの「くだらない」という性質に、妙な魅力というか惹きつけられてしまうものがあった。その曖昧なカッコよさみたいな空気感の中にある見栄の所在には中毒性に似た魅力があった。
本来、見栄とは、自分を実際よりよく見せようとする行為であると同時に、「こうありたい自分」を演じる楽しさが伴うものである。
振り返ってみると、結局、それで「どういう自分になったのか?」となると些か漠然としているが、確かに前を向いていたし、前進していた気がする。
この視点に立つと、「見栄」は単なる虚栄ではなく、希望や向上心の証しでもあったと思うのだ。人によって多少の違いはあるかも知れないが、そこには他者からの認知や明日への期待感、自己変革など前向きなエネルギーに満ちていたからである。
ただ、若い時だからこそ、浮き沈みはある。とかく不器用で自らを成立させづらいことに悩み、奔走する。そして虚栄心という負の情感が同居し始める。 見栄と同時にそんな厄介な連鎖を共有しながら、自分の存在を継続させるために、時にもがいた。一方で、敢えて無精ひげを生やして、見栄を張る気力さえ失せていた自分もいた。いまだから言えるのかも知れないが、そんな時にでも心の中では、自分とたたかう熱量はゼロではなかった気がする。
ところで、昔の職人や商人の世界では、一流になってから一流らしく振る舞えではなく、一流でなくても一流らしく振る舞えという考え方があった。
見栄を利用して自分を引き上げる発想である。
それぞれの結末は計り知れないし、そもそも見栄の「本質」はそれほど崇高ではないのかも知れない。いや、この多少の矛盾が魅力なのだろう。
<見栄の経年変化①>・・自分を自分で通訳するためのパイプ・・
若い頃の見栄は、「理想の自分になりたい」という願いの裏返しであった。
一方で、最近、歳を重ねてから思い当たる見栄との接点は、「自分でなくなることを拒んでいる」そんな抵抗感に満ちた気持ちの揺らぎが占めている。
以前は、あくまでも無意識のうちに見栄という行動は発動していた。だが、時を追うごとに見栄をはらなくなった現在の自分に対して、危機意識にも似た別の感情が芽生えている気がする。
見栄は日常生活においても下支えだった。事実として変わらないことは「理想の自分」を願う心だと思うのだが。その登場シーンは確実に減っている。
これまで見栄が担っていたこと、それは、自分が理想の自分と対話する機会であり、そのためのパイプ役であったということ。今となってはそんな向上心すら鈍化してしまったのか。
男の本質としての見栄とは何だったのか?上掲で申し上げたような本能という括りにおいては、極めて無意識の中で発生する自己顕示欲とある種の攻撃性、時としての守りのような気がする。その視点においては、男は見栄を張るべき生き物であり、その必要性に覆われている。
ただ、今の世の中は特に、男が男のままでいられないとしたら、見栄の張りようもないのである。我々古狸にとっては、尚更のことである。
さらに、単純に見栄というものを喜びとの接点として捉えるならば、その機会が減っていることは現実かも知れない。見栄という行動自体が既に懐かしい記憶の中でしか存在しなくなってしまったとしたら寂しい限りである。
同時に自らが習熟して見栄を張らなくて済んでいる、と言い切れるのか?見栄を通じて自らを測る領域は広い。
<見栄の経年変化②>・・色褪せてきた見栄を張ることへの気概
自らの「いま」を探ってみたい。決して、見栄を失ったわけではない。確かに表舞台に立つ機会は減った。
年を取ったという事実も否めないが、現役を退いたわけではない。隠居も引き篭もりも、冬眠をしているわけではない。
ただ些細な感覚であるのだが、人生への期待を失いつつあるのかも知れない。同時に楽しみの種類や性格、量までもが変化したことを事実として受け止めている。
大きな変化はないにしても、見栄を張る気概が薄れていることは事実である。完全消失はしていないはずの見栄との関係性の変化は必然なのであろう。
極端な言い方をすれば、見栄を張れたときは、まだ社会や人生への参加意欲が強かった、という言い方が当てはまる気がする。
紛れもない現実とは、見栄を張ること自体の機会、場面が減ったということである。
それは何を意味するのか?
これまで見栄の背景として存在していた”理想の自分”。そして否応なく訪れた”現実の自分”。
その架け橋は、いかなる形で結び付けられているのだろうか。
長年生きてきて、自分の弱さや臆病なこと、今なお未熟なことも自分が一番よく分かっている。それなのに、こうありたいという理想像を変わらず持っている。そしてその間に横たわる距離を埋めようとして生じる見栄。だからこそ見栄は捨ててはいけないものなのである。
特にこの年齢で見栄を捨てるとしたら、生きるうえでの人生哲学を排除するようなことである。とかく、年齢を重ねると、「人にどう見られるか(外聞)」よりも、 「自分がどう在りたいか(矜持)」へと重心が移っていく人が多い。それは見栄を捨てることではない。
老年期は「見栄によって誤魔化せていた部分」が剥がされる時期といえるのではないか。肩書・体力・若さ・権威・金銭による演出は自ずと失っていく。ある意味、自己肯定として、完全燃焼した感覚のうちに消化されているものだ。
しかし、若さも肩書も失われたとき、残るはずだった中身が存在しないとなると、その苦しみは図り知れない。一方で、人生として積み上げたもの、例えば、本当に身につけた教養や培った人格、磨いた技術、育んだ人間関係などは年と共に剥がれ落ちるものではない。ある種の拘りとして、「もっていたモノ」から「残っている真」への移行になる。
確かに見栄は消えていく側面が強いのかも知れない。ただ、成長から熟成への変化は、内なる真実が結実した証しでもある。
つまり、最初は見栄だったものが、この年齢で人格になる。やはり男としての美学はそこに至るのである。もしかしたらそれが極上の見栄の姿かも知れない。
男の人生の決算期は、妙な忙しさが伴うのである。
<究極のたしなみ>
この年齢になって、見栄を張ることの究極は、重たい腰、背筋を伸ばして歩くことである。この年齢に至っての見栄には、多少の我慢としづらさが伴うものである。郷の流儀でいうのであれば、それはやせ我慢。
そして最後に訪れる見栄は「見栄え」である。そこには既に物質的浅薄な価値観を超越した男の美しさがあるはずだ。
見栄と外聞
鼻毛やひげの剃り残しは見過ごせない。見栄を我が精神として昇華させること、それは趣のある男として着地することでもある。
それも男の小さな矜持の1つだ。他人の評価とは関係なく、自分が守りたい誇りがそこにある。
これまで見栄が自らを動かし、そして、老いるほどに矜持に拘り出した自分がいる。
見栄は人生の入口であり、時に出口でもある。
11月19日は国際男性デーだという。せっかくだから、男という少々面倒な生き物を、しばらく面白がってみようと思う。

