欲望と諦めのあいだ

「欲とのつき合い」

十月になった。  傘をさす毎日が続いているうちに秋らしい空気が訪れていた。
秋という季節には、人を少し落ち着かせる何かがある。 

六十四にもなったことだし、そろそろ自分も穏やかに暮らせばいい。身体を労り、無駄遣いを控え、旨いものもほどほどにする。
季節の変わり目には、人間も少しばかり殊勝になる。 
そう思ったのだが。 

欲というやつは季節ほど素直に移ろってはくれない。翌日にはお気に入りのラーメン、スープまで飲み干した。もう脂や塩分から遠ざかろうと思った翌週には、焼肉が食いたい、辛いものは胃にくると分かっているのに、タイ料理の「激辛」の文字を見ると恐る恐るでも心が動く。我ながら、欲の始末が悪い。

「幻想と願望」

食欲の秋だからといって、別にいきなりグルメのレポートを書きたくなったわけではない。歳を取れば、欲も枯れるものだと思っていた。欲もいろいろあるわけだが、「食」は一番身近な欲であるが、今のところ衰えてはいない。食に限らず、いろいろと興味が失せない。趣味の盆栽の手入れをするひと時は、その枝ぶりに一喜一憂しながらの静なる心の満たしがある。既に棚に並んだ植物たちとの会話には余計なお金はかからない。新入りを迎え入れたくなる物欲を抑えられればだが。
そんなひと時もあっという間に過ぎる。確かに充実した時間であったが、日が陰ってくると店のネオンが恋しくなる。街灯の下で乱舞する虫たちと変わらない。ふと気がつくと赤提灯の店のカウンターでグラスを傾ける自分がいる。最近は立ち飲みやこじんまりとした居酒屋での独りの時間が居心地いい。ふと隣を見るといつの間にか現れた「いい女」がひとりシャンパングラスの中に立ち上る小さな泡の列を見つめていた。なんていう現実はない。そもそも居酒屋でシャンパンは不釣り合い、この手の妄想はどこか整合性がおかしい。

幻想と願望は欲に続く階段。欲とは限りないものか、はたまた遊びとしての戯言か。いずれにせよ、おぼろげに映し出されるその世界は、男たちの孤独のなかに自由と解放を導いてくれる。
秋という季節はそんな彷徨い方が似合う。

「歳を取った男の欲望とは何なのか」

ネットには「これからは妻と旅行をして、趣味を楽しみ、のんびり暮らしたい」と書き込む同年代がいる。男の老後としては、なかなか模範的である。立派だと思う。皮肉ではない。むしろ、そんな生き方を素直に口にできることが少し羨ましい。
私はどうも、ある種の“正しさ”だけでは息が詰まるタイプのようだ。
別に質実剛健に生きてきたわけでもない。多くのことが、ちょっとずつ変で、不安定で、時には無責任だった。 人生の行儀が、少し悪い。

だからなのか、そんな同年代の考え方に触れると妙なことが気になる。欲という感情とどう向き合っているのだろうか。
上手に折り合いをつけているのか。それとも、そもそも私ほど欲張りではないのか。何かを諦めた結果なのかもしれない。 そもそも他人の胸の内など知る由もない。

ただ、そう考えていると、どうやら課題は彼らではなく、諦めることの下手な自分の方にあるような気がしてくる。

個人的には、欲望という感情を失ってはいけないのではないか、と思う。もっとも、そう思うのは欲張りな自分を肯定したいだけなのかもしれないが。 しかし、歳を重ねれば、我慢強さとは関係なく諦めざるを得ないことも増えてくる。身体のこと、お金のこと、残された時間のこと。

欲望と諦め、この二つが同時に真実になってしまう年代の様な気がする。

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