9月1日生まれの旧友がいる。
毎年のことだから、今年も「誕生日おめでとう」とメッセージを送った。
ただ今年は、その後にひと言つけ加えた。
「64……何か中途半端な年齢だよな!」
他人事のように書いたが、私も3日後の今日、64歳になった。
還暦の60歳なら、それなりに節目らしい。65歳になれば、嫌でも年金という言葉が現実味を帯びてくる。
では、その間に挟まった64歳とは何なのだろうか。
63歳までは、そんなことを考えもしなかった。44歳の誕生日に何を思ったか。54歳のときはどうだったか。思い出そうとしてみたが、ほとんど記憶がない。なのに64歳は、妙に引っかかる。何となく65歳という年齢が見えてきたからだろうか。それとも、単に数字が中途半端だからなのか。
どうしてもその理由に近づきたくなってきた。64歳の男たちを思い浮かべてみる。
来年の定年を待っている男がいる。すでに役職を離れ、再雇用で働いている男もいる。まだ会社の中心で働いている男もいれば、商売をしていて定年など最初から存在しない男もいる。仕事を辞めたい男もいれば、まだまだ辞めたくない男もいる。一方で、辞めたいけれど辞められない男もいるだろう。住宅ローンがまだある男。子育てが終わった男、まだ終わっていない男。親の介護の真ん中にいる男。孫がいる男、いない男。独りになった男。挙げていけば、きりがない。
そして私のように、長く続けた仕事に一区切りをつけ、耕し切れていなかった別の畑の手入れに精を出そうとしている男もいる。 同じ64歳なのに、立っている場所がまるで違う。
考えてみれば、男はずっと何かの準備をしてきた。学校は社会に出る準備。若手時代は一人前になる準備。中堅になれば、その先へ進む準備。結婚すれば家庭をつくり、子供が生まれれば育てる。管理職になれば次の役職を考え、経営者なら会社の次の一年を考える。
ずっと「次のための今」を生きてきた。
ところが64歳の今日、これから何の準備をするのだろう。65歳になる準備か?
年金をもらう準備? 老後の準備? それとも終活?
現実には、そういうことも必要なのだろう。 それでも、なんだか急につまらなく感じてしまう。もちろん、備えが大切なことは身に染みている。私自身、もともと計画的な人生とは程遠かったのだから、なおさらなのかもしれない。
ただ、もう何かのためだけに「今」を使わなくてもいいんじゃないか、という気持ちもどこかにある。かといって、「残された人生を有意義に」とか、「第二の人生を楽しもう」と高らかに宣言するほど優等生でもない。ましてや「人生100年時代」と言われても、私にはいささか現実を超越した話に聞こえる。
「今を生きる」なんて、そんな格好いいことでもない。
不安定なら不安定なりに、今日をなんとか継続する。ドギマギしながら精一杯進んで、明日への体力と気力を今夜の睡眠で確保する。 その繰り返しでいいのかもしれない。
思い返せば、若い頃は同じ年齢というだけで、比較的似た景色の中にいた気がする。
学校を出て、働き、誰かと競い、家庭を持つ。もちろん誰もが同じではない。それでも年齢という尺度の中で、何となく似た景色を眺めながら歩いていた。
ところが年齢を重ねるにつれ、その景色は少しずつ散らばっていった。
そして64歳。
同じ年齢だからといって、もはや同じ景色を見ているとは限らない。同じ64歳なのに、人生の時計が全然違う。64歳とは、年齢だけで男を括れなくなり始める歳なのかもしれない。
俺はこれまで、いつも何かの途中だった。
では、64歳の今、いったい何の途中にいるのだろう。
私自身は63歳の春、長く続けてきた仕事から退任した。だからといって、すべてが終わったわけではない。まだ仕事として目指していることもあるし、これまでとは違うビジネスも、まだ軌道に乗ったとは言えない。
退任も64歳も、どうやらゴールではなかった。相変わらず途中の景色の中にいる。
ただ、その景色は以前とは少し違う。
64歳は還暦でもない。古希でもない。年金の標準的な開始年齢でもない。
何かを祝う大きな節目でもない。社会が意味を与えてくれない年齢。だから妙に曖昧なのだろう。
でも、社会が意味を決めてくれないのなら、自分で意味を決めてもいいのかもしれない。
いや、無理に決めなくてもいい。曖昧とは、まだ答えが出ていないことの証しなのだから。
ここ数年、夏になると使っている白い腕時計がある。ずいぶん傷も増え、あちこちガタもきている。それでも、時は確実に刻んでいる。
64歳。
何の途中なのかは、まだよく分からない。まあ、それでも時計は動いている。

