2026年5月31日。私は代表取締役を退任した。小さな移り変わり。会社は変わらなかった。変わったのは、自分の心の景色だけだった。
相談役契約への変化。役職はない。そして個人的には別事業への全力投球が待っている。
状況変化でいえば、定刻での出社がなくなったことぐらいである。盆栽の水やりなど、朝もそれなりにやる事があるので気が抜けるような感慨深さはない。ただ、ちょっとした感傷はいきなり襲ってくるものではなく、じわじわと徐々に表れる。
<転機>
男の人生に限ったことではないが、「転機」というものがある。進学や就職、結婚や子どもの誕生などであるが、多くの転機はプラスとマイナスの両側面がある。そして職から退くというタイミングが訪れる。この最終段階の転機は、退職や退任などの状況変化、内的外的要因もそれぞれである。
転機とはその前後で生活・役割・価値観・行動が変化する出来事だ。
何がどう変わるのか?単純に言葉で言い表せるようなことではない。
<男の本音>
「自分の心がつくる自分の景色」
自分の会社でも組織である限り制約はあったわけだが、いま自分は晴れて自由の身になった。確かにその一端はあるはずだ。
経営者としての責任論は別として、組織という環境は目に見えない鎖で自らを縛るもの。ただ、その鎖は結果的に自分の心と身体をプロテクトしてくれていた気もする。そしていつの間にかその縛られている環境が自らを支える居場所になっていた感じがする。と言いつつもそれが場所なのか習慣なのかは微妙である。確かなことは組織の一員として働くための時間を費やしていたことであり、今となっては、その必要性が無くなったということ。
事業承継としての社内の諸確認を経て、多くのことを自らの意思に基づいた退社ストーリーとして組み立てた。当然のことながら、全てが初めてのことなのだが、その後発生する様々な出来事は、想定内・外は別として全てが現実の事なのだと認識を改めた。特に社内環境や社員の反応を目の当たりにしてみても、会社は今までと何ら変わるものではなかった。
逆に自分自身の中に映し出される景色は僅か数日の中で様変わりしたことを自覚した。具体的にその現象の数々をお伝えすることは避けておくが、世のおじさんたち、それぞれの景色が訪れるのだと思う。あえて1つお伝えするならば、会社は前へ進んでいるのに自分の心だけがそれに追いつかなかいような感覚に覆われることである。組織を去り、肩書きを脱いだ男には過去に繋がる居場所の扉はもう存在しない。
そんな風にちょっと自虐的になってしまった自分がいた。
<変わる風景>
退任後、2ヶ月が経った。6月以降、自分の次なる居場所はシェアオフィスだ。在宅ワークの頻度もそれなりだが、なるべく外に出ようと心掛けている。通勤環境はさほど変わらない。ジャケットは気分次第なのだが、やはり出勤=仕事着を羽織るという感覚は捨てきれるものではなく、この暑さは別としてカジュアルな装いで出かける感覚は、これまでの出勤モードとは違う心境である。いやはや面倒な心の癖というか、この新たな状況の恩恵を生かせていないのである。
電車内で恐らく自分よりご年配の方がきちんとしたスーツ姿で通勤している光景を目にすると今の自分を多少なりとも疑ってしまう。「退任はまだ早い、勿体ない」とのお言葉を結構頂いたせいかも知れないが、気持ちが揺れる自分がいる。自らの事として100%後悔はしていないと断言できるが、何だかしっくりこない。
自分なりの1つの見解であるが、核となる事業がまだ途上であるが故の不安定感からかも知れない。同時に住民税、その他出費の嵐が確定していること。お金が泡のごとく消えることは知っている。これまでは浪費でも自己投資でも、お金が消えたとしても取り戻しながら進んできた。
だが先行きを見通すことは難しい今となっては事情が大きく違う。人生をやり直す為のバス停はもう無いに等しい。最後の最後、小さくなっている自分がいる。
既に終点に到着したわけではない、はずだ。郷の男っぽく、やせ我慢をしながら先を見つめたいのだが・・。1つ言い訳を言わせて欲しい。いま抗えないものの極みは体力の低下、老化である。新規事業の構築も少し前に抱いていた到達点との距離を感じる。諦めや事業の難しさではなく、これだけ時間と自由を手にしておきながら、スピードが加速しないジレンマ。この自由というものは自らを甘やかす元なのか?この年齢になって緊張感を自分で醸成し維持することは意外と難しい。やはり自分みたいなタイプは、鎖に縛られる必要があるのかも知れない。
ただ大きな変化としていえることはストレスが多少減ったことかも知れない。いまこの時だけだろうが。当然、家庭内でもどこでも人との関係性の中でストレスが無くなることはないわけで。
振り返ると、これまでの仕事人生は平坦ではなかった。これは厳然たる事実であり、良し悪しでもない。だからこそ、乗り越えようという気概も知っているし、疑心暗鬼になることも覚えた。
退任と退職はゴールではない。途切れさせることはできない60代のわが道は、まだまだ不確実な環境に覆われている。
大きく前進もできないし、後退も許されない。そんな境地の中で、今の自分は多少おどおどしながら、自分の立ち位置を確かめている気がする。
そんな男の居場所。まだ働くという価値観を微妙に引っ張っている時間枠。
同時に働きたいと働かなければならない、という気持ちが混在した中での切迫感。
これまでの、会社という指定席で括られた居場所から、自ら選択できる自由席という居場所。時にデッキに立ったまま車窓から外を眺める、そんな自由な孤独感を味わえるのである。でもこの自由は時として残酷である。以前であれば新幹線の中でもスマホの呼び出し音に追いかけられ、デッキに向かったのだが、今は静かなものである。
だからこそ郷の男の精進は続くのである。
改めて考えてみると、今回の転機は孤独や自由のあり方を学び直す機会なのかも知れない。
男が一人の人間として、自分だけの人生という景色に、最後の一筆を添えていく。きちんと自らと対峙することができる居場所は心の中に既に存在している。
そんな男の悦なる楽しみの時間はまだまだある、と思う。

