人生の余白に宿る男の素顔
この年齢になると、今とこれからを時間軸で測ることが多くなった気がする。
仕事に邁進していた40代がつい昨日のことのように思える。あれから二十年余り。
振り返れば、驚くほどあっという間だった。
ところが同じ二十年という経過時間を今の年齢にプラスしてみると、自分はゆうに八十を超えてしまうのだ。正直、その時自分がいるのか、自信がない。
期間は同じだが、急に曖昧な時間になる。
過ぎてしまった二十年と、これからの二十年。同じ長さのはずなのに、この歳になると随分と違って見えるものだ。
そんな心もとない思いを巡らせながら、なんとなく自分の人生を振り返ることもある。
一方でニュースに映し出される同年代のおじさんたちの姿を中途半端な他人事として横目で覗いていることもある。まだ高速道路を逆走することはないだろう。ブレーキとアクセルを間違えることもない。そう自分に言い聞かせながら。
常々思うことがある。医療は進歩し、人は随分と長く生きられるようになった。長寿そのものは喜ばしいことである。ただ、長く生きることと、長く生き生きと暮らすことは、同じではない。
働くことを人生の主軸としてきた時代に一つの区切りをつけ、社会の中心から少しずつ離れたとしても、それでも人生はまだ続いている。お叱りを受けるかもしれないが、我々は、そんな「中途半端に長い余生」を享受する時代に生きていると云えてしまう。
「余生」という言葉と「充実や楽しさ」という価値観は必ずしも符合しない。そんな曖昧な時間を与えられた男たちは、どこに身と心を置けばいいのだろうか。
長寿社会になったからこそ生まれた、贅沢な戸惑いなのかもしれない。
そんな余生に向かって突き進むおじさんたちは、その時間の分だけ、実にさまざまな顔を見せる。
頑固・時代遅れ・説教臭い・格好悪い。
また、そんな評判とは無縁に、日に焼けた笑顔が似合うおじさんもいる。
もちろん、本当に格好の悪いこともするし、失態をおかす。若い人から見れば、なんともダサい振る舞いだってあるだろう。
でも、そんな一場面を見ただけで、その人がどんな道を歩いてきたのかまで分かるはずがない。一人の人間が生きてきた何十年という時間は、そんなに簡単に値踏みできるものではないと思う。
「男たちの郷」には、当初から「男の生きづらさ」という一つの入口があった。
それは今も変わらない。おじさんというだけで揶揄されたり、時代遅れと笑われたり、ときには辛辣な言葉を浴びせられることもある。
ただ、この歳になって少し見方が変わってきた。生きづらさというものは、他人や社会から押しつけられるものばかりではない。長く生きているうちに、自分自身の中にもそれを助長するものを随分と抱え込んできた気がする。
後悔と納得、そして妥協。もっと違う自分でありたかったという思いもあれば、いまだに手放せない執着もある。そんなものを抱えながら、自分で自分を低く見積もったり、昔の自分を責めたりしているのだから、生きづらくなるのも無理はない。
他人からの評価は、自分の都合だけでは変えられない。でも、自分の中にあるものなら、少し話が違う。六十年以上付き合ってきた自分に、そろそろ別の見方をしてやることはできる。泥臭い足跡を正面から見つめ直すつもりで、ここまで歩いてきた自分を少し好意的に眺めてみる。
それだけでも、自分で自分に課してきた生きづらさの一つくらいは、手放せるのではないだろうか。 そうして少し身軽になって立ち止まってみると、今まで気にも留めなかった道が見えてくる。
そんなことを考えながら、ふと一つの言葉が浮かんだ。
<路傍の石>
山本有三の『路傍の石』という小説がある。
貧しくて進学できなかった少年・吾一が、さまざまな苦難の中で成長しようとする物語である。物語そのものというより、私は「路傍の石」という言葉に妙な親近感を覚えた。

人目を引かず、顧みられることもなく、
道端に転がっている石。
我々おじさんたちも、
そんな石ころの一つなのかもしれない。
若い頃、自分が踏みつけている足元の石ころの存在を気にかけることはなかった。
挫折と無縁ではいられなかった働き盛りの頃、自分の無力さや小ささを幾度となく感じながら、それを石ころの様な自分とはまだ思えなかった。ただ、それなりにもがいてきた。
ところが還暦を越えた今、自らを小さな石ころになぞらえている自分がいる。傷もあり、欠けていて立派な石ではない。そんな石であるが、ここまで転がってきた。
誰かに拾ってもらわなくてもいいし、今さら、きれいな丸い石になる必要もない。
傷も欠けも、いまだに残る角も、ここまで転がってきた時間がつくった自分の形である。そのすべてを肯定するつもりはないが、なぜこんな形になったのかは自分が一番よく知っている。そう思えば、この不格好な石ころも悪くないだろう。
<野辺の望路>
若い頃は、いま歩いているこの場所こそが、自らにとっての正道だと疑う余地もなく猛進していた。仕事でもプライベートでも先々に目を向け歩み続けた。それが当たり前だった。
ただ、この歳になると道の景観は随分と変わるものである。しかもその変化は案外急で、昨日までと同じように歩いているつもりなのに周囲の速さや様相が違って見える。少々戸惑いながら立ち止まってみると、今まで気にも留めなかった小径(こみち)が目に映り込んでくる。
若い頃の自分は、そんな道の存在を想像すらしなかった。一路邁進の自分だったから、見えなかった情景があり、正道こそ王道として長く歩いてきた今だから、小径を歩むことの豊かさや面白さも分かるような気がする。どちらが正しいという話ではなく、結局のところ、昔も今も自分は自分の道の上にいる。ただ、その見え方が変わったのだ。ただ、その見え方が変わったのだ。
そんな小径を「望路」と呼んでみたい。
希望という言葉を掲げて意気揚々と歩くような道ではなく、これまでの自分を背負ったまま、道端の佇まいに目をやりながら、もう少し先まで歩いてみようと思える道である。
毎日、背広を着てネクタイを締める必要もなくなった今。会社の中心から離れ、社会との距離も少し変わった。
世間から見れば、人生の表舞台から降りたように見えるのかもしれない。だが、もう他者の双眼鏡に映り込む必要はないのだ。
野辺にいようが路傍にいようが、そこには自分の人生として続く歴とした私の道がある。
自分が立っている場所は、いつだって自分にとっての本道なのだ。
還暦を越えた男が、そこでふと立ち止まってみる。どこへ続いているのかも、よく分からない。でも、道はある。希望に満ちた道というほど大袈裟なものではない。過去を清算して、新しい自分に生まれ変わる道でもない。今までの自分を連れたまま、もう少し歩いてみる道である。歩き慣れた自分の道。ただ無心に歩んでいけばいいだけだ。
自分だけは知っている。この石ころの転がり方を。だから今さら締め括らなくてもいいのだ。ちっぽけな石ころなりの、ささやかな納得があれば。
野辺に立つ心地よさ。
今もここに自分の道は続いている。そして、その先にも、まだ道はある。

