❷「国際男性デー」に関連づけて

第一章 皆さまはどう思われますか?

シンプルに思うことがある。たかが六十年余りの経験でしかないわけだが、今の日本は恵まれているであろうと。その根拠は幾つもあるが、恵まれているはずのこの世の中で男の生きづらさに目が向けられる機会が多くなったのも事実である。郷のブログでもそんな男のあり方を重要なテーマの1つとしてきた。ただ自分の中ではその生きづらさの主因たるものにこれまで曖昧さを感じてきた事実がある。
本来、「悩み」の原因や「つらい」という意識も人によってその受け止め方は違う。 同時に世代(年齢)や生活環境、地域性、性格や性質など様々な因子が混在している中では一様に図るのは難しいといえる。

本来、「悩み」の原因や「つらい」という意識も人によってその受け止め方は違う。同時に世代(年齢)や生活環境、地域性、性格や性質など様々な因子が混在している中では一様に図るのは難しいといえる。
我々、還暦前後の男性たち。そんな自分が思うところ。「生きづらさ」って何だろうか?と。昔に比べたら多くの物事が発展し便利になり、いわゆる不自由さみたいなことは大きく減っている。そんな生活環境の変化とともにこの年齢になった。その一方で当然のことながら、体調不良など大病でなくてもあちこちにガタがきて疲れが取れないと嘆く自分がいる。そう、そんなある意味当たり前のことは生きづらさの類のことではない。生きづらさの正体とは生活上の足枷みたいなものだろうか。
この生きづらさに該当しそうなことを幾つか思い浮かべてみたのだが、これだけ長い間、男稼業を営んでいると多くの事柄を男としてわきまえていると云うか、逆に男として未完成な自分を不甲斐なく感じる。
それは自分に内在する精神性の世界であり、俗にいう生きづらさの感覚とは違う。

ただ世の中では実際にこの「生きづらさ」という不具合に対する男たちへの診断書が様々な情報として発行されるようになった。診断書の数は増えるばかりだが、効果的な処方箋は見当たらない。男たちが生き易くなる投薬療法などないに等しい。

我々にとっての生きづらさという考え方。それは「つらさ」の領域とは違うのかも知れない。何かに対してのしんどさや苦しい作用ではない気がする。それは余白やあそび、楽しみの欠如のような気もする。お気楽なつもりはない。アナログな世界にはそれがあった。ノスタルジックな回想ではない。例えばレコード盤と傷。その小さな傷は必ず針を飛ばす。もちろん聞きづらいのだが、毎度のこととして受け止め、そんな傷ついたレコードを大切に思いながら、いちいちクリーニングをする面倒さは手間という一つの楽しみの世界であった。いつしか名曲も傷とセットで心に刻まれる。そんな面倒と楽しみ、いまはどこに存在するのであろうか。敢えて面倒たるものをつくり出せば出会えるような気もするが。

一方で内面性を語るとしても、男としての「気概」や「男らしさ」というものが「生きづらさ」と結び付くような認識はどうしても持てない。逆にそれが「つらさ」を導く根源悪というのであれば、それこそが自分を磨く術であり男として味のある経年劣化への道、その醍醐味である気がしてならない。要は男が生きる上で必要不可欠のものである。色々なことを挙げ出したら「それはしんどいなぁ」と感じることも多々あるかも知れないが、長年の鍛錬のお陰でその許容枠は広い。
いろいろなパターンが存在するこの「つらさやしんどさ」。一律に表現はできない。
我われおじさんたちには世代的な固有の感性が存在している。ただ異口同音に「時代が変わった」「いまはそういう時代ではない」と言葉が飛び交う中で、やはりそれに迎合しなければいけないのか?

世間でいう男性の生きづらさを解消する類の情報は既に多く出回っている。一人暮らしの男性にコミュニティに属すべき主旨の処方箋が出される。
遂に訪れた長寿高齢化社会は、予測できる問題と発生した事実が混在しながら様々な情報として流布され続けている。
過去を懐かしがること、その全てがいまの笑顔には繋がらない。

特に我々おじさんたちにとっていまを生きることとは。妥当な処方箋とは? 

第二章「いき」入門 <いきを学ぶ>

先述した通り、恵まれている時代のいま。
ただ、逆に面倒くさい世の中になったなぁ!とつくづく思う。程よい加減、いい塩梅という適切な状態がなくなったというか。意味の分からない緊張状態に無意識の中で縛られている。
いささか唐突な主張かも知れないが、おじさんたちの処方箋として「いき」の世界観の中に可能性を感じる。
自分としては妙にマッチしている、この「いき」という精神性。

最近のマイブームである江戸文化への傾倒が根底にある。NHKの大河ドラマ「べらんぼう」然り、時代は進むが同局の「昭和元禄落語心中」の台詞回しにも感銘を受けた自分がいた。そして九鬼周造氏の「いきの構造」という書籍との出会いによって改めて確信が持てた。
「いき」は男たちの郷の基本精神であり、郷の住人の自己認識の姿、そのものであったと。
この「いき」という美意識をおじさんの自己表現のあり方と重ね合わせられそうな気配がする。
「いき」「粋」という言葉自体は耳にしたことがあるのと思う。この書籍、結構引き込まれると思う。
まずは「いき」を楽しみながら深掘りしてみたい。

「いき」の理解 基礎編

九鬼周造は「いき」という美意識の根本を「媚態・意気地・諦め」の三要素の調和から成り立つ、日本的美意識だと説明している。

「媚態」 男女が互いを惹きつけようとする駆け引きから生まれる美意識。
「いき」の本質の部分。
要素/「いきな話」「いきな事」と表される異性間の不安定で緊張した関係。その過程自体を楽しむ美学。同時に「なまめかしさ」「色気」を見出す感性であり、両者が完全に結びついてしまうとその緊張は消え、媚態も失われる。媚態の本質は「つかず、離れず」という微妙な距離感の維持にある。完全な関係を拒み、常に不安定さを抱え続ける者こそが、真の媚態を理解する「いき」な人間なのだ。ただ、いきの原理は男と女、その恋愛に限ったことではない。

ここがポイント!
人間関係全般や所作、建築などの文化にも通じる普遍的なものその核心は、「他者と関わりながらも束縛されず、緊張と自由を保つ関係」。と、広く通じているのだ。

「意気」(意気地)  恋心に溺れて相手の虜になることを拒む誇りと自制心、
                      武士道的な禁欲の精神を帯びている。
要素/「媚態という不安定さを誇りと自由で支えるもの。それは江戸っ子に代表されるような「威勢の良さ」「格好の良さ」「品格のある勇ましさ」に通じる心意気。単なる派手さではなく野暮を嫌い、粋を誇る気風に根ざしている。「意気」は媚態にある相手への媚びを抑制し、あえて突き放す強さを持つことにある。ここには「武士は食わねど高楊枝」に通じる武士道の精神が息づいており、金銭よりも意気地を重んじる誇りがあった。遊郭においても、高位の遊女は金ではなく意気で買うものとされ、そうした気高さが「いき」の格を支えていた。

ここがポイント!
ここでも間違ってはいけないのは「いき」は単なる恋愛の技巧ではなく、誇り高い理想主義、洗練された美意識ということ。

「諦め」  恋に執着して醜態をさらさぬよう、世の無常を悟って未練を断つ心構え。仏教的な「諦観」に通じる。
要素/ 執着を断ち切り運命を受け入れる心構え。恋の成就を拒みながらもその未完成を受け入れる精神的余裕。

「垢抜けて(諦め)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」
➡この三位一体が相互に支え合って揃ったとき、そこに初めて精神的に気高く洗練された「いき」が成立する。

理想主義的な愛の観念とは異なる「いき」は苦界を生き抜く中で培われた、未練を断ち切った清々しさと誇りの美学。媚態による艶やかさを意気と諦めによって気高く支える精神文化なのである。
まずは「いき」の基本を押さえておいて欲しい。つづく・・

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