おじさんの価値は、誰が決めるのか

昨今、SNSでは、おじさんのファッションや言動を揶揄する記事を頻繁に見かける。
おじさん当事者として、そんな同世代の男たちの苦境を論じ、正義感を振りかざすつもりはない。ただ、それを何事もなかったように他人事として見過ごす気にもなれない。

腹が出た。髪が薄い。服がダサい。
なぜ、それだけで知らない人間を笑っていいことになるのだろうか。
もちろん、揶揄される対象はファッションだけではない。言動や振る舞い、時には本人の失態が発端になっていることもある。

そもそも、そうした話の中心人物が熟年男性に限られるはずもない。それなのに、なぜ
「おじさん」はこれほど矢面に立つのだろう。
理由を探せば、「多様性への順応」「これまでの男性主導社会への反発」など、いくつもの説明ができるのだろう。どれにも一理はある。
では、おじさんをバッシングする人たちは何を感じ、何を求めているのか。
格別の大義などないような気もする。

そして、自分としては、嘲弄する側の心理を深く理解したいとも思わない。正直なところ、どうでもいい。
現実とネットという空間の距離を考えれば、そこを追究することにも、さほど興味は湧かない。

ただ、一つだけ引っ掛かることがある。
SNSの世界では、何を言っても許されるかのような空気を感じることがある。システム上の性格は別としても、そこには人を尊重するという、ごく当たり前の感覚の希薄さを感じざるを得ない。
身体も気持ちも少しずつ変わり、若い頃の「ふつう」や「当たり前」が、いつまでも当たり前ではなくなっていく。自分の意思だけでは抗えない変化も増えてくる。
歳を重ねれば、程度の差こそあるが、誰にでも訪れることである。

それを笑う社会がなくなればいい。
そう思う一方で、世の中から「おじさんバッシング」をなくすことなど、恐らくできないとも思う。
ネット社会で誹謗中傷の対象になるのは、おじさんに限ったことではない。誰かが何を笑い、何をダサいと思うかまで、こちらには決められないからだ。
ならば・・・
「笑われないおじさん」になることが、答えなのだろうか。
そこに必死になるのも、どこか違う気がする。

現役時代は、人からどう見られるかを気にしなくてはならなかった。仕事では評価され、家庭では役割を求められ、外見にもそれなりに気を遣ってきた。社会の中で生きている以上、それは必要なことでもあった。
歳を重ねていく中での、どうにもならない変化。抗えるものもあれば、受け入れるしかないものもある。それはごく自然なことである。

ならばこれからは、他人の評価とは別のところにも、自分の価値を置いていいのではないか。
SNSで笑われる「おじさん像」に自分が当てはまったとしても、そこから逃れることに必死になる必要はない。もちろん、身だしなみを整えることを放棄するという話ではない。

服を楽しむのもいい。身体を鍛えるのもいい。少しでも格好よくありたいと思うことは向上心でもある。ただ、それを「笑われないため」にするのか、「自分がそうありたいから」するのか。そこには、案外大きな違いがある。

いま我々おじさんたちは、それぞれの社会環境の中で生き、生活している。そしてこの年齢になると、他人からどう評価されるか以上に、自分の心の足場をどこに置くのかが大切になってくるように思う。
他人から価値があると思われることと、自分自身の価値は、きっと同じではない。誰かに評価されることで得られるものもあれば、誰かの役に立つことで感じられるものもある。

そして、自分がどれほど多くの支えの中で生きているかを知ることも、自分という存在を
見つめ直すことにつながるのだと思う。
歳を重ねれば、失うものもある。けれど、これまで歩いてきた時間まで失うわけではない。関わってきた人がいて、得たものも失ったものもあり、その積み重ねの上に、いまの自分がいる。

それなら、そろそろいいのではないか。自分の価値を、他人の採点表から取り戻しても。

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