「おじさん病」

お年寄りに抜かれた。しかも、かなりの速度差だった。

加齢と共に男たちはどんな自分と闘うのであろうか?健康でいる為の弛まぬ努力、それとも健診結果のD判定を構成する数値との闘いか?
63歳のおじさん、そんな自分がある日突然、痛風になった。遂に発症したのだ。それも心機一転、人生を再スタートさせたこの6月に。
それなりの頻度で発生する身体の不具合。検査結果や生活習慣の反省はする。そしてわかってはいるのだが、最後に待っているのは「加齢や老化」という身も蓋もない結論であったりする。単に自分をごまかしながらやり過ごしてきた、そういうことになる。
身体は、自分より先に歳を察知しているのである。

痛風が発症し徐々にその痛さが増していく時の苦痛は何とも言えない。
だがその足の痛み自体より、昨日まで普通にできていた家の中での移動でさえ突然できなくなる、この心理的苦痛?恐怖?の方が耐え難いものだ。
二足歩行の人類にとって、この身体バランスは絶妙な設計なのだ。「足」はある一ヶ所の痛みという不具合によって、いとも簡単にそのバランスを崩し、歩行が困難になる。身体は正直にその不調を表現してくるものである。大げさでもなく「寝たきり」という言葉がよぎった。これまで縁遠かった言葉の幾つかが、最近は身近な言葉になりつつある。

鎮痛剤によって、多少痛みが引いた。だが心の苦痛は治まることはなかった。
痛む足をかばいながら歩いていると、後方から来た老人にあっさり抜かれた。
病院に行ったら杖を進められた。どれもが現実の出来事であり、心の逃げ場所はない。

感謝が足りない?

ここで改めて実感させられたことがある。
この再スタートというタイミングで狙いすました様なアクシデントの発生。何の因果であろうか?とつくづく感じた。ふと思った。 身体の故障は健康管理への警鐘として知らせてくれる。自分の身体の管理意識を高めなければいけないことは言うまでもない。
ただ、なぜいまこの時なのか?このターニングポイントでの警鐘の意味は何なのか。   その答えはさほど難しくなかった。
難しくないというのは容易いこと、という意味ではなく、これまでも幾度となく自分への戒めとして、対峙してきた事柄だからである。だが、未だに不十分、未会得である。まさしく感謝の欠落としての戒め。
この数か月のこと、事実関係でいったら何かが終わって何かが始まった。要はこの始まるタイミングでの戒めとしての「感謝」は?その再認識。
自分がどれほど多くの支えの中で生きているかを認識しているか?それを自らの一部である足という重要なパーツをもって知らしめられた。
感謝が足りないとは、「与えられたもの」を当然とみなし、「自分一人で成り立っている」という錯覚が強くなっている状態とも言える。
では「足りない」とは何が足りないのか?感謝そのものが足りないというより、気づき・想像力・謙虚さ・自分以外への意識が足りていなかったのかも知れない。
感謝」というものは、尿酸値のように数値的な測定ができるわけではない。
本来、この年齢になったのなら、最近自分は「感謝深さ数値」が上がった!と客観的に証明できればいいのだがそうはいかない。仮にあってもD判定の自分かも知れない。
感謝や謙虚さ、慈悲といった心の領域は、どこか「終わりなき修養」のように感じている。

ちょっと分析してみると、感謝には二つの側面があると思う。
一つは感情としての感謝。何か良いことがあったとき、自然に「ありがたい」と感じること。もう一つは認識としての感謝。
常々、その度毎に感謝の感情が湧かなくても、特に自分の隣人との縁や支えの中で生かされていることを理解し感じ続けること、そんな気がする。
そうはいっても、やはり自分はまだまだブレる。怒りや不平不満を抱くことがあると感情の波も乱れてしまう。しかしそんな時でも認識として持ち続けること、肝に命じることは可能なはず。
まあ、言うのは容易いことなのだが、感謝はCT画像にも映らないだろうし、ただただ、そんな視点を見失わないように心がけるのみである。やはり自己鍛錬の終わりなき継続。男たちよ、鍛錬し続ける己を持ち続けよう。

ところで、この猛暑、残暑はいつまで続くのであろうか。アルコールは水分補給の意味をなさないのを知りながら、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。痛風発作が過ぎれば、ビールの冷たさしか覚えていない、そんな懲りないおやじである。

きっと、こういうところが『おじさん病』なのだろう

郷の気づき 
高尿酸値は「痛風だけ」の問題ではない。
 (腎臓や血管にも負担をかけ、放っておくと慢性腎臓病や心血管疾患につながる可能性が。)
・健診の「経過観察」をまだまだ大丈夫、と侮ってはいけない。

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